(1)信仰するほどの悩みはないという人へ
「信仰するほどの悩みはない」という言葉は言い換えると「悩みのない人は信仰の必要がない」ということであり、信仰するということをただしく理解していないようです。
仏様がこの世に出られた目的は、仏知見すなわちいかなるものにも壊れることのない清浄で自在の境地と、深く正しい知恵を衆生に対して開き、示し、悟り入らしめるためであると法華経にに説かれています。
そして法華経宝塔品には「この経を読み持たんは、是れ真の仏子 清浄の地に住するなり(大石寺販妙法蓮華経p355)と説かれ、正しい仏法に帰依する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏な境地に住することができると教えています。
日蓮大聖人も「法華経は現世安穏・後生善処の御経なり」(弥源太殿御返事 大石寺阪日蓮大聖人御書p723)と仰せられているように、安穏な境界とは現在ばかりではなく未来にわたる者でなければなりません。
楽しいはずの家族旅行が事故に遭って一瞬にして悲惨な状態になったり、順調に出世コースを歩んでいた人が一時の迷いから人生の破綻を招いたりすることはしばしば耳にすることです。
今が幸せだということは例えて言えば平坦な道を何の苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には険しい上り坂も、泥沼の道もあります。
難所に来てから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。
どんな悪路に遭遇しても、それを楽しみながら悠々と乗り越えていく力を持つ人こそ真に幸せな人問うべきでしょう。
強い生命力と深く正しい知恵は、真実の仏法に帰依して信心修行を積まなければ決して開発されません。
目先の世界や自己満足に閉じこもることもなく、1日も早く正しい仏法を信仰し、インに賢い人間となり幸福な人生を築いてください。
日蓮正宗「正しい宗教と信仰」より
(2)信仰はなせ必要なのか
一般的な信仰とは、お年寄りが一種の精神的修養や先祖を敬いつつ、和やかな楽しみのばを持つために、お寺で参詣し、ときには団体旅行をすることくらいの認識しか持ち合わせていない人が多いようです。
あるいはまた、困った時に神仏の加護を求めて参詣し、手を合わせ、がんを変え、守り札などを大事にすることが信仰だと思っている人もあります。
しかし正しい宗教を信仰する目的は、一人一人の人間の生命の救済、すまり生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の四苦や、経済的な苦しみや対人間関係の悩みなどを含む、人のいかなる苦難にも打ち勝つ活力を与え、すべての人々に真実の幸福を築かせ、尊い人生を全うするための生き方を教えるところにあります。
正しい宗教の働きは単なる精神修養や気休めではないのです。正しい信仰は何よりも人間の全生命の問題と、その生き方、人の幸・不幸に関わる、実に重大な意義と働きと大きな価値を持っているのです。
日蓮正宗「正しい宗教と信仰」より