霑妙寺とお手植え紅梅
霑妙寺とお手植え紅梅

第1章 九州布教の歴史

九州に初めて大石寺の教えが伝わったのは、鎌倉時代後期のことです。
その機縁となったのは、元弘三(一三二三)年に第二祖日興上人の弟子の日仙師が、土佐国幡多(はた)(高知県宿毛(すくも)市)に大乗坊を興(おこ)したことによります。日仙師は、大乗坊と太平洋を挟んで対岸に位置する日向(ひゅうが)国早田(そうて)(宮崎県日向市)に住む道証房という僧を破折し改宗させました。この道証房が、さらに行騰(むかばき)山の別当であった薩摩法印(さつまほういん)を折伏しました。
この薩摩法印が総本山へ登って修行を積み、帰国後、日知屋(ひちや)という所にあった阿弥陀堂を法華堂に改め、そののち伊東祐安(すけやす)の帰依を受けて、定善寺(じょうぜんじ)を創しました。しかし、第三祖日目上人が入滅されたあと、大石寺を去った日郷に従い、定善寺は大石寺の信仰から離れてしまいましたが、長い時を経て、昭和三十二年には日向本山定善寺とその一門が、日蓮正宗に帰一することができました。
さかのぼって、江戸の寛永年間、細川氏が肥後(熊本県)に国替えになったことから、西山本門寺の流れを汲(く)む僧の日応が、熊本に本因寺を建立しました。この本因寺の信徒であった元武士の臨導日報(りんどうにっぽう)は、にわかに「強折(ごうしゃく)こそ、日蓮義である」と主張し、堅樹(けんじゅ)派に共感して、安政から文久のころに京都洛北(らくほく)の双林寺(そうりんじ)に入りました。
この双林寺を拠点とし、臨導は京都をはじめ、他の地方において異流儀を宣揚したのです。特に、筑前国や筑後国(福岡県)の者達と結託し、大石寺を敵(かたき)として盛んに誹謗(ひぼう)・中傷を繰り返しました。その姿は、まさに堅樹日好(にちこう)の邪義そのものだったのです。
その堅樹日好は、元文四(一七三九)年に、越後国に生まれています。摂津国梶原(大阪府高槻市)の源覚寺に住した一致派日朗門下系の僧となりましたが、明和九(一七七二)年に、総本山第三十五世日穏(にちおん)上人に帰伏(きぶく)しました。しかし、ほどなく大石寺を批難し始め、ついに「自身こそ日興上人う門流の正統である」などと主張したのです。
やがて、日好は「自讃毀他(じさんきた)の説法停止」法令に違反したため、逮捕されました。そこで諌状(かんじょう)を寺社奉行に提出しましたが、受け入れられることはありませんでした。三年余りを牢獄で過ごし、安永四(一七七五)年に三宅島に流され、その後、利島に島替えとなり、文化九(一八一二)年、流罪(るざい)地で死亡しました。
その日好の主張は、
「日興上人こそ、大聖人の遺法を受けられた方である。その譲り状もあり、古来、これは明白なことである」(法水涇渭抄・研教一八-一六八ページ取意)
と日興上人を一往、血脈法水の継承者として認めつつも、
「大石寺の一門の信心は、それぞれ強盛(ごうじょう)ではあるが、摂受(しょうじゅ)の謗法によって、未来は阿鼻地獄に堕ちることは間違いない」(折中抄・同三五〇ページ取意)
などと述べ、大石寺の一門は強義(ごうぎ)に折伏をしないから地獄に堕ちる、と非難していたのです。
こうした、時の御法主上人を無視した日好の行き着くところは、必然的に本門戒壇の大御本尊への否定につながっていきます。実際、日好は、
「今、戒壇の御本尊とは、正直に爾前権経(にぜんごんぎょう)を捨てている折伏の行者日好の胸中にあるのだから、根本の板本尊を私の折伏の水に写して書写した本尊の安置場所こそ、寂光の都にほかならない」
(同三五八ページ取意)
とまで言っています。そして、このような日好の邪教を継承したのが妙寿尼の師、臨導だったのです。
ところで、安政から万延の変わり目(一八六〇年)に、英俊院日胤(えいしゅんいんにちいん)師(のちの総本山第五十四世日胤上人)が、京都の法華経勝劣派各宗の学問所であった大亀谷檀林(おおかめだにだんりん)で学ばれた直後、九州北部を訪れて布教されました。この時、大宰府の信徒・古川長左衛門宅に滞在して、堅樹派への折伏に打ち込まれましたが、目覚ましい成果を収めることなく大坂へ戻られました。
このころには三原次郎右衛門という、九州には数少ない大石寺の信徒が、南筑前の松崎(福岡県小郡市)に住んでいました。また、久留米藩の大阪中之島の蔵屋敷に、斉藤兵蔵と今村新兵衛(武七)という二人の目付がいて、日胤師の折伏によって、二人とも大石寺の強信者になりました。ほどなく、新兵衛には九州弘教の大志が芽生え、折を見ては久留米に帰って折伏に努めていました。当然、異流儀の堅樹派との衝突もありましたが、かれらを屈服させるまでには至りませんでした。
そこに現れたのが、折伏戦の大闘士、妙寿尼です。
妙寿尼の深く固い信心は、自らの体験によって裏打ちされたものでした。その体験とは、妙寿尼が僧となった最初の師、堅樹派の僧・臨導の臨終における堕地獄の悪相を、邪義の現証として目の当たりにしたことです。すなわち、
「言語が自由に出せず、耳の端が動くという犬猫のような畜生道を示した。食物が全く喉(のど)を通らず、大小便が一切不通になるという餓鬼道を示した。それらの苦しみから出る脂汗は、頭からお湯を注いだように垂れていた。また、その頭上からは火炎のような煙が昇る。まさに地獄にあって苦しみもがく相であった」(本書三二ページ取意)
と。妙寿尼は、かねてより師のあまりにも激しい大石寺批判に疑問を抱くだけでなく、大石寺に密かに心を寄せていたため、師匠に対して、
「大聖人の御金言にも『何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹の足一つ入れたらんが如し』と仰せられています。この苦悩の御容態はまさしく謗法の罪にて無間(むけん)大城に堕ちる前相と考えます。そして、その謗法罪は主として富士(大石寺)誹謗の罪が重なるものに違いありません」(本書三三ページ取意)
「我らはお師匠様の教えに背き、大石寺正義・当寺(双林寺)邪義と決定しました。この上は、大石寺に帰伏することが、かえってお師匠様の謗法罪を救うことと信じます。是非、御承知置きください」                                  (同ページ取意)
と訴えたのです。はたして臨導は、うれしげに合掌して安泰の仏相を現し、眠るように命終(みょうじゅう)しました。
妙寿尼は臨導の没後、その持ち物のなかから、総本山第五十二世日霑上人が堅樹派を破折した『叱狗(しっく)抄』を見つけ、貪(むさぼ)るように読み、師の誤りをいっそう確信しました。そして明治八年六月八日、日霑上人に願い出て、得道受戒を許され、好堅から妙寿日成となったのです。その後、妙寿尼は懺悔滅罪のために「九州の異流儀信徒のすべてを破折し、救いきる」との大願を起こしました。
単身で久留米に入り、文字通り死身弘法の戦いによって多くの人々を入信させ、ついに念願であった本宗寺院・霑妙寺(でんみょうじ)を建立するに至ったのです。のみならず、その余勢をもって十一カ寺の礎(いしずえ)を作り上げ、大石寺の正義を大いに顕揚しました。
まさに、妙寿尼が「九州開導の師」と謳(うた)われる所以(ゆえん)です。