
発刊に当たって
本年は、九州開導(かいどう)の師・妙寿日成貴尼(みょうじゅにちじょうきに)の百回忌に当たります。そこで御法主日如上人猊下の御許可を得て、『妙教』誌に連載した内容をまとめて『九州開導の師 妙寿日成貴尼伝』を刊行することにいたしました。
本書の元は、総本山第五十九世日亨(にちこう)上人が書かれた伝記本にあり、昭和四十年にはその書を福岡県久留米市の霑妙寺(でんみょうじ)第七代・大石菊寿(きくじゅ)師(常設院日法能化)が再版されました。その後、霑妙寺第八代住職・内藤壽学師が妙寿貴尼の八十回忌の折、現代訳に改めたものを再々版されました。この時、第六十七世日顕上人より序文を賜り、その序に妙寿貴尼の業績・高徳が余すところなく記されていますので、ここに謹んで掲載させていただきます。
「第一に女人の身としてその一生を捧(ささ)げての烈々(れつれつ)たる大信仰に基く護持(ごじ)弘通(ぐづう)は、正(まさ)に聖化(せいけ)の女人成仏を末法悪世に華(はな)開くものであり、またその清浄(しょうじょう)にして玲瓏(れいろう)王の如(ごと)き人格は、接する僧俗檀信の常に思慕敬愛(しぼけいあい)する処である。思うに強固な信仰により天性の光が更に倍加発揚(ばいかはつよう)されたと見るべきであろう。特にその深い仏道の因縁は、貴尼の数多(あまた)の弟子中よりおのずから総本山当職(とうしょく)を御二方までお送りした命運からも推察されるのである。
第二に感ずるのは、邪義邪宗に対する謗法厳戒(ほうぼうげんかい)・謗法呵責(かしゃく)が貴尼の一代業蹟の根本精神であったと思われる事である。仏道への初めの縁が異流(いりゅう)の師、臨導(りんどう)によるもので、その謗法堕獄(だごく)の現証たる臨終(りんじゅう)の悪相を直視することにより、いかに異流邪義の恐るべきかを身に泌(し)みて体験せられたのであった。そこに徹底した謗法破折(はしゃく)の大確信が生じた。それが貴尼の一期を貫く不撓不屈(ふとうふくつ)の教化(きょうけ)活動の源となったのである。
蓋(けだ)し顕正(けんしょう)には必ず破邪(はじゃ)を基(もとい)とせねばならない。今日以降の吾(わ)が宗門に於(おい)てもこの意義を深く銘記し、その先証(せんしょう)を現時に即する破邪顕正の折伏に表して行くべきであろう。
第三には、地域伝導に於(お)ける教勢(きょうせい)発展の功績である。九州に於ける富士清流の開導は、貴尼の師範たる総本山日霑(にちでん)上人乃至以下の教導の下(もと)、全く明治以降による妙寿日成尼の久留米霑妙寺建立と、それを根拠とする九州各地への弘通にあった。その伝導因縁により今日十指に余る、しかも有力な寺院が存立し、正法広布への中心的存在として活動している。顧(かえりみ)て日成尼の教化の偉大さを痛歎(つうたん)する次第である」
(該書)
まさに妙寿貴尼の御一生は、熱烈な信仰心に基く折伏弘通にあったことが拝せられます。
時あたかも、第二祖日興上人御生誕(せいたん)七百七十年の佳節(かせつ)に当たり、法華講員五十%増の御命題達成の大事な秋(とき)を迎えました。それはまた、平成三十三年の宗祖日蓮大聖人御聖誕(せいたん)八百年・法華講員八十万人体勢構築に向けての新たなスタートでもあります。この時こそ、我らは妙寿貴尼が命を懸けて示された破邪顕正・正法厳護の精神を胸に刻み、いよいよ折伏弘教に精進しなければなりません。
本書が、御命題達成に向かう僧俗の、折伏推進の一助となることを心から願うとともに、本書刊行に当たって御協力いただいた霑妙寺様をはじめ、関係寺院ならびに関係者各位に深く謝意を表し、発刊の辞といたします。
平成二十七年一月十五日
大日蓮出版
凡 例
一、 本書は、平成八年に福岡県久留米市・霑妙寺より発刊された『九州開導の師 妙寿日成貴尼伝』を加筆・訂正して『妙教』(平成二十一年十月号から同二十四年十二月号まで)に掲載したものを再校訂したものである。
一、 本文の表現および人名等は、読者に解りやすいように配慮して平易を旨とした。
一、 資料編の日霑上人・日布上人御状等は、日亨上人御著『妙寿日成貴尼伝』によった。
一、 本書中に用いた文献の略称は次の通り。
御 書 ――― 平成新編日蓮大聖人御書(大石寺版)
法華経 ――― 新編妙法蓮華経並開結(大石寺版)
研 教 ――― 富士学林教科書 研究教学書
富 要 ――― 富士宗学要集
はじめに
明治初期、日本は西洋の思想、文化、社会制度を積極的に取り入れ、一気に近代化を推し進めました。「文明開化」と称された息吹あふれるこの時代、日蓮大聖人の正系である大石寺の信仰を大いに顕揚し、大御本尊のもとに多くの人々を導いた偉大な女性が現れました。「九州開導の師」と謳(うた)われ、近代宗史にその名を刻む妙寿日成貴尼です。
姓は佐野、法号は朝山阿闍梨広謙房日成尼大徳(ちょうざんあじゃりこうけんぼうにちじょうにだいとく)です。「妙寿日成貴尼」との呼称は、得道受戒の際、総本山第五十二世日霑上人より、道号を「妙寿日成」と賜ったことに起因します。また「貴尼」の尊称は、後世の人々がその偉業を讃え、また思慕敬愛(しぼけいあい)するところから、いつとはなく加えられるようになりました。
本書では、以下「妙寿尼」と表記します。
第1章 九州布教の歴史
九州に初めて大石寺の教えが伝わったのは、鎌倉時代後期のことです。
その機縁となったのは、元弘三(一三二三)年に第二祖日興上人の弟子の日仙師が、土佐国幡多(はた)(高知県宿毛(すくも)市)に大乗坊を興(おこ)したことによります。日仙師は、大乗坊と太平洋を挟んで対岸に位置する日向(ひゅうが)国早田(そうて)(宮崎県日向市)に住む道証房という僧を破折し改宗させました。この道証房が、さらに行騰(むかばき)山の別当であった薩摩法印(さつまほういん)を折伏しました。
この薩摩法印が総本山へ登って修行を積み、帰国後、日知屋(ひちや)という所にあった阿弥陀堂を法華堂に改め、そののち伊東祐安(すけやす)の帰依を受けて、定善寺(じょうぜんじ)を創しました。しかし、第三祖日目上人が入滅されたあと、大石寺を去った日郷に従い、定善寺は大石寺の信仰から離れてしまいましたが、長い時を経て、昭和三十二年には日向本山定善寺とその一門が、日蓮正宗に帰一することができました。
さかのぼって、江戸の寛永年間、細川氏が肥後(熊本県)に国替えになったことから、西山本門寺の流れを汲(く)む僧の日応が、熊本に本因寺を建立しました。この本因寺の信徒であった元武士の臨導日報(りんどうにっぽう)は、にわかに「強折(ごうしゃく)こそ、日蓮義である」と主張し、堅樹(けんじゅ)派に共感して、安政から文久のころに京都洛北(らくほく)の双林寺(そうりんじ)に入りました。
この双林寺を拠点とし、臨導は京都をはじめ、他の地方において異流儀を宣揚したのです。特に、筑前国や筑後国(福岡県)の者達と結託し、大石寺を敵(かたき)として盛んに誹謗(ひぼう)・中傷を繰り返しました。その姿は、まさに堅樹日好(にちこう)の邪義そのものだったのです。
その堅樹日好は、元文四(一七三九)年に、越後国に生まれています。摂津国梶原(大阪府高槻市)の源覚寺に住した一致派日朗門下系の僧となりましたが、明和九(一七七二)年に、総本山第三十五世日穏(にちおん)上人に帰伏(きぶく)しました。しかし、ほどなく大石寺を批難し始め、ついに「自身こそ日興上人う門流の正統である」などと主張したのです。
やがて、日好は「自讃毀他(じさんきた)の説法停止」法令に違反したため、逮捕されました。そこで諌状(かんじょう)を寺社奉行に提出しましたが、受け入れられることはありませんでした。三年余りを牢獄で過ごし、安永四(一七七五)年に三宅島に流され、その後、利島に島替えとなり、文化九(一八一二)年、流罪(るざい)地で死亡しました。
その日好の主張は、
「日興上人こそ、大聖人の遺法を受けられた方である。その譲り状もあり、古来、これは明白なことである」(法水涇渭抄・研教一八-一六八ページ取意)
と日興上人を一往、血脈法水の継承者として認めつつも、
「大石寺の一門の信心は、それぞれ強盛(ごうじょう)ではあるが、摂受(しょうじゅ)の謗法によって、未来は阿鼻地獄に堕ちることは間違いない」(折中抄・同三五〇ページ取意)
などと述べ、大石寺の一門は強義(ごうぎ)に折伏をしないから地獄に堕ちる、と非難していたのです。
こうした、時の御法主上人を無視した日好の行き着くところは、必然的に本門戒壇の大御本尊への否定につながっていきます。実際、日好は、
「今、戒壇の御本尊とは、正直に爾前権経(にぜんごんぎょう)を捨てている折伏の行者日好の胸中にあるのだから、根本の板本尊を私の折伏の水に写して書写した本尊の安置場所こそ、寂光の都にほかならない」
(同三五八ページ取意)
とまで言っています。そして、このような日好の邪教を継承したのが妙寿尼の師、臨導だったのです。
ところで、安政から万延の変わり目(一八六〇年)に、英俊院日胤(えいしゅんいんにちいん)師(のちの総本山第五十四世日胤上人)が、京都の法華経勝劣派各宗の学問所であった大亀谷檀林(おおかめだにだんりん)で学ばれた直後、九州北部を訪れて布教されました。この時、大宰府の信徒・古川長左衛門宅に滞在して、堅樹派への折伏に打ち込まれましたが、目覚ましい成果を収めることなく大坂へ戻られました。
このころには三原次郎右衛門という、九州には数少ない大石寺の信徒が、南筑前の松崎(福岡県小郡市)に住んでいました。また、久留米藩の大阪中之島の蔵屋敷に、斉藤兵蔵と今村新兵衛(武七)という二人の目付がいて、日胤師の折伏によって、二人とも大石寺の強信者になりました。ほどなく、新兵衛には九州弘教の大志が芽生え、折を見ては久留米に帰って折伏に努めていました。当然、異流儀の堅樹派との衝突もありましたが、かれらを屈服させるまでには至りませんでした。
そこに現れたのが、折伏戦の大闘士、妙寿尼です。
妙寿尼の深く固い信心は、自らの体験によって裏打ちされたものでした。その体験とは、妙寿尼が僧となった最初の師、堅樹派の僧・臨導の臨終における堕地獄の悪相を、邪義の現証として目の当たりにしたことです。すなわち、
「言語が自由に出せず、耳の端が動くという犬猫のような畜生道を示した。食物が全く喉(のど)を通らず、大小便が一切不通になるという餓鬼道を示した。それらの苦しみから出る脂汗は、頭からお湯を注いだように垂れていた。また、その頭上からは火炎のような煙が昇る。まさに地獄にあって苦しみもがく相であった」(本書三二ページ取意)
と。妙寿尼は、かねてより師のあまりにも激しい大石寺批判に疑問を抱くだけでなく、大石寺に密かに心を寄せていたため、師匠に対して、
「大聖人の御金言にも『何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹の足一つ入れたらんが如し』と仰せられています。この苦悩の御容態はまさしく謗法の罪にて無間(むけん)大城に堕ちる前相と考えます。そして、その謗法罪は主として富士(大石寺)誹謗の罪が重なるものに違いありません」(本書三三ページ取意)
「我らはお師匠様の教えに背き、大石寺正義・当寺(双林寺)邪義と決定しました。この上は、大石寺に帰伏することが、かえってお師匠様の謗法罪を救うことと信じます。是非、御承知置きください」 (同ページ取意)
と訴えたのです。はたして臨導は、うれしげに合掌して安泰の仏相を現し、眠るように命終(みょうじゅう)しました。
妙寿尼は臨導の没後、その持ち物のなかから、総本山第五十二世日霑上人が堅樹派を破折した『叱狗(しっく)抄』を見つけ、貪(むさぼ)るように読み、師の誤りをいっそう確信しました。そして明治八年六月八日、日霑上人に願い出て、得道受戒を許され、好堅から妙寿日成となったのです。その後、妙寿尼は懺悔滅罪のために「九州の異流儀信徒のすべてを破折し、救いきる」との大願を起こしました。
単身で久留米に入り、文字通り死身弘法の戦いによって多くの人々を入信させ、ついに念願であった本宗寺院・霑妙寺(でんみょうじ)を建立するに至ったのです。のみならず、その余勢をもって十一カ寺の礎(いしずえ)を作り上げ、大石寺の正義を大いに顕揚しました。
まさに、妙寿尼が「九州開導の師」と謳(うた)われる所以(ゆえん)です。
第2章 誕生から出家まで
年少のころ
妙寿尼は、天保六(一八三五)年五月十九日、父を内大臣近衛忠煕(ただひろ)の家司・朝山(あさやま)改め佐野蔵人(くらんど)、母を丹波亀山藩・形原(かたはら)松平家の家臣・青山惣太夫の娘・梶(かじ)の三女として、京都東若宮町(上京区)に出生しました。「亀尾(かめを)」と名づけられ、名門家出身の両親による庇護のもと、何一つ不自由なく、幸せな幼少期を過ごしました。
父の蔵人は教育熱心で、躾(しつ)けにも厳しい人でしたから、亀尾は身につけるべき礼儀作法や習い事はもちろんのこと、文学から武術に至るまで、徹底して教え込まれました。この時期に受けた教育が、のちの九州弘教の際、大いに発揮されることになります。
こうして育った亀尾は、いつしか俗世の煩(わずら)わしさを厭(いと)い、出家を考えるようになりました。そこで十三歳の時、村雲(むらくも)御所(日蓮宗瑞竜寺門跡)の後継者として選ばれたのを機に、将来、村雲御所の住持として寺内に入る契約を交わしました。しかし、他寺院の者の反対に遭い、親族一同にも拒まれ、その願いがかなうことはありませんでした。
十四歳の時、入江(いりえ)御所(浄土宗尼門跡・三時知恩寺)の尼宮(あまみや)に伴われ、京都の高雄(たかお)・槙尾(まきのお)・栂尾(とがのお)の三尾(さんび)の紅葉を見に行った時に、二十歳ほどの尼僧が物静かな谷間の草庵で、散りゆく錦模様を愛(め)でながら一首詠(よ)んでいる姿を見て、ついうらやましく思い、再び「なんとしても出家したい」との衝動(しょうどう)に駆(か)られました。
出家を決意
安政六(一八五九)年の二十五歳の時、亀尾は長門国(ながとのくに)萩の毛利邸に移り住みました。翌年、万延元(一八六〇)年八月十一日に父が亡くなりますが、亀尾は臨終に立ち会えず、大きな悔いを残すことになりました。
さらに翌年の暮れ、今度は母親が病気との知らせを受けました。これを聞いた亀尾は「せめて母親だけは」と、直ちに暇乞(いとまご)いを願い出て、文久二(一八六二)年正月十八日に京都に帰りました。着いた時から寝る間も惜しみ、亀尾は心を尽くして母を看病しました。しかし二月九日、ついに母親は生涯を閉じたのです。
相次いで両親を失った亀尾は、まさに悲嘆に暮れました。まもなく妹のスマが仏門へ入る望みがあることを知った亀尾は、心のうちに再々度、出家の志が湧き起こっただけなく、いっそう強く、固いものに変わっていきました。亀尾の決意が堅固になるのと時を合わせたように、スマまでが同年九月二十五日、母のあとを追うように、世を去ってしまいました。
このころ、日本の世相全体が、大きく変化を遂げようとしていました。翌文久三(一八六三)年より「幕末」という言葉に象徴される一連の出来事が続き、一気に世の中が騒がしさを増していったのです。長州藩が禁裏(きんり)守護役を解任されて京都から追放されるという異変があり、さらには三条実美(さねとみ)など尊王攘夷(そんのうじょうい)派の七卿(きょう)が京都から追放されて長州に下るという出来事もありました。その上、アメリカやフランス等の艦隊による下関砲撃事件まで起きたのです。
これらの世の中の動きを肌で感じ取っていた亀尾は、このまま安閑(あんかん)として日々を過ごしていたならば、父が仕えた近衛(このえ)家や、自身が十三年間もお世話になった毛利家に恩返しができないと考えるようになりました。さらに、両親や妹の菩提を、どのように弔(とむら)えばよいのかとも思い悩んでいました。
その時、朝山家の菩提寺である双林寺の住僧・臨導日報が『身延山御書』や法華経の提婆達多品に説かれる女人成仏をしきりに説いて、亀尾に日蓮大聖人の信仰を始めるように勧めてきたのです。他方、本願寺等の門跡縁組の交渉などで煩わしいことも多々あり、亀尾は、ついに浮世の雑事を捨てて出家する意思を固めました。そして八月十日、父の命日のお逮夜を期し、亀尾は所縁一切を捨てて臨導の弟子となったのです。黒髪を剃り落とし、染衣の身となって、以後「好堅」と名乗りました。文久三年、二十九歳の秋のことでした。
第3章 異流儀時代
正法誹謗
謗法とは知らず、好堅尼は素直に臨導の教えに従い、日々、仏道修行に励みました。臨導が書いた「ニセ本尊」に向かって、法華経を読誦し、題目を唱えました。しかし、その法式は南無妙法蓮華経と一遍唱えるごとに、題目に続けて四箇の格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)も加えて唱える、という独特のものでした。
このような唱題法式は、堅樹(けんじゅ)派の開祖の堅樹日好(にちこう)が始めたものです。そして、彼らは「日蓮大聖人の正当な後継者は日興上人であるが、現在の大石寺は謗法と化(か)している」などと教えていたのです。当然、好堅尼も檀家の人々に「大石寺は師敵対の大謗法集団であり、その信仰をするならば、無間(むけん)地獄に堕ちることは間違いない」と説くようになり、時の御法主である第五十二世日霑(にちでん)上人を目の敵(かたき)にして、あろうことか「臆病者、売僧(まいす)、外道、悪知識」などの言葉まで用いて、誹謗の限りを尽くしていたのです。
異流儀時代の活動
邪義に洗脳され、謗法にまみれた日々を過ごしていた好堅尼でしたが、「折伏の妙手」とのちに謳(うた)われる資質は、この時代にも垣間見ることができます。
このころ、長州藩主・毛利敬親(たかちか)公にとっては、蛤(はまぐり)御門の変があり、幕府による長州征伐(せいばつ)があり、三家老を斬って幕府服従を示したり、主戦派が高杉晋作を牢に閉じ込めたり、敬親父子が糾問されたりと、波乱続きで苦境に陥っていました。かつてお仕えした毛利家の、まさに一大事と考えた好堅尼は、これを看破することはできませんでした。
慶応二(一八六六)年二月六日、好堅尼は死を覚悟の上で、長州へ向けて京都を発ちました。ちょうど第二次長州戦争直前でしたから、途中、固く守られている海陸の要所が、好堅尼にとっては大きな通行障害となり、そこを越えることは容易ではありませんでした。
ようやく赤馬(あかま)関(下関)の役所に入った時には、戦乱中にもかかわらず手厚い応対を受け、好堅尼は敬親公に拝謁(はいえつ)することができました。この時、好堅尼は、永年受けてきた大恩に謝意を表するとともに、世情の争乱や国許(くにもと)の危機を乗り越えるには題目の受持しかないことを、異流儀の法門とは言え、日蓮大聖人の金言をもって精一杯、勧めたのです。巧みに法を説く好堅尼の姿を見ていた敬親公は、ことのほか満足な様子で、勧められるままに堅樹派の内得信仰をすることとなりました。
この騒乱の最中、しかも尼僧の身でありながら、敬親公を折伏することができ、受けた御恩のわずかでも報いることができたと、好堅尼は心から仏天に感謝を申し上げたのでした。
その後、毛利家はお咎(とが)めが解かれ、さらに薩長連合が成立し、お家安穏という状況になりました。また数年後、敬親公が上洛した折にも、好堅尼は教えを説きましたが、ほどなく敬親公が薨去(こうきょ)したことにより、残念ながら毛利家との縁は、そのまま断絶してしまいました。
慶応三(一八六七)年八月、好堅尼は、京都から二十四キロほど北の、愛宕(おたぎ)郡花脊(はなせ)村別所(べっしょ)にある本満寺奥の院という荒れ寺に移り住みました。そこは鞍馬(くらま)山の北の麓(ふもと)に位置し、晩秋に雪が降り始めると、夏の始めまで消えないほど、奥深い山中でした。離世別所の名の通り、訪れる人もほとんどいない静かな環境で、好堅尼は読経と唱題などを、だれに妨(さまた)げられることもなく、心の赴くままに専念できました。
このころ、折々に近所に住む炭焼き職人達に説法をしました。好堅尼は、この地に双林寺の末寺の建立をと考えましたが、地元の人々はだれ一人、聞き入れませんでした。
好堅尼自身も「静かな山林のなかでは読経と唱題にふける修行には好都合でも、布教が進まなければ末法の真の修行とはならない」と考え、里へ十二キロほど下った鞍馬山の南麓、愛宕郡鞍馬村二の瀬に移りました。この近くには、鞍馬寺や僧正谷、貴船神社などがあり、それぞれの参道沿いに貴船、二の瀬、野中、市原と、いくつかの村落が続いていました。そのうちの一つである二の瀬には、伝教大師作と伝えられる薬師仏を安置する小堂があり、好堅尼はその堂を借用して仮りの住まいとしました。読経と唱題、さらに布教にも勤しんで、一年余の間に十四、五人を信徒にし、好堅尼は、わずかではありましたが弘教の法悦に浸(ひた)ることができたのです。
双林寺での修行
明治二年に好堅尼は、愛宕(おたぎ)郡幡枝(はたえだ)村にある綾小路有長(ありなが)卿の別荘を買い取り、そこに移りました。ここは師匠の臨導が住む双林寺にもほど近く、勉学修行の上で利便性に優れていました。
しかし、日常における炊事や洗濯などは、相変わらず好堅尼の苦労の種となって付きまといました。というのも、これまでの好堅尼の半生は、自分で右の物を左に移さなくても、すべて侍従(じじゅう)が世話をしてくれる生活だったからです。わずか一年や二年の間、山中で一人暮らしをしただけでは、自分の力だけでの生活する術(すべ)が身につくはずはありません。しかも師匠は、強固な信念だけは持っていましたが、ほとんど学識がなかったので、高度の教育を受けた好堅尼を満足させる教えを説くほどではありませんでした。
ともあれ、師匠・臨導の近くに居を構えた好堅尼の日々は、極めて忙しいものとなりました。自分の庵室で朝食を終えると、直ちに師匠が待つ双林寺に出向いて、夕刻まで修行を勤め、その後、自室に戻ってから身の回りのことをして就寝するという毎日でした。日常生活のなかに読経と唱題の時間はごく少なく、多くの時間を、山に薪(たきぎ)を樵(こ)りに行ったり、谷底まで水汲(く)みに出かけることに費やしていたのです。のみならず、時には修行などおかまいなく、師匠のために田畑を耕し、米や麦を搗(つ)いて、それを精(しら)げることで一日を終えてしまう、という時期もありました。師の命令とはいえ、慣れないこともあって、ことごとくが好堅尼の柔弱(かよわ)な身体には堪えるものばかりでした。
また、好堅尼には当時、智境(ちきょう)という十三歳になる弟弟子(のちの広布院日奘(にっそう)能化)がいました。ある年の暮れ、弟弟子と一緒に餅米を一石(こく)も搗かされたことがありました。この時、好堅尼は全身の骨が砕けてしまうのではないかと思われるほどの苦痛を味わい、自分の庵室に下がっても、まる三日間にわたって高熱が下がらず、苦しみ抜いたのです。好堅尼にとっては思い出してもゾッとする出来事でしたが、自身に「こうした苦労も、何かの修行となるであろう」と言い聞かせ、日々を耐え抜きました。まして若い智境にとって、毎日の過酷さは、修行という程度をはるかに超えたものでした。
一方、師匠の臨導はといえば、一年のうちの半分は、弘通と称して九州に出掛けていました。当然、好堅尼は双林寺の留守居をしながら、智境の学問の面倒も見てあげました。おのずと智境は、師匠よりも好堅尼から薫陶(くんとう)を受ける時間の方が長くなり、見るみるうちに仏教全般に関する広い学識を身につけました。
臨導の大病
明治五年八月一日、二人の師・臨導が大病を患いました。好堅尼と、既に十五歳になっていた智境は、昼夜不眠で看病をしました。この時、師匠が断末魔の苦悩に七転八倒する姿を目の当たりしたのです。これによって二人は、誹謗正法の現罰がいかに恐ろしいか、それが骨の髄まで染み込んだのです。臨導の惨状は尋常(じんじょう)ではなく、まさに経典通りの悪相、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦悩を同時に味わっているかのようでした。
病床の臨導は、言葉が自由に出せず、耳の端(はし)が常に動き続け、まるで犬猫のような畜生の姿を示しました。また、食べ物が全く喉(のど)を通らず、大小便が一切不通になって、腹だけが異様に膨(ふく)れ上がり、その姿は餓鬼道の相そのものでした。さらに、これらの苦悩によって、出る脂汗(あぶらあせ)が頭からお湯を注いだように垂(た)れ続け、頭のてっぺんからは火炎のような煙が立ち上るという、灼熱地獄において苦しみもがく相にほかならないものだったのです。
それは、好堅尼が日ごろ、臨導自身から聞いていた成仏の姿とは天地雲泥の相違でした。世間一般の、邪法を信じている人でさえ滅多に見られない形相(ぎょうそう)を、師匠は示したのです。
「これは、いったい何ごとであろうか」
お側で看病するにつけ、好堅尼と智境は泣いても泣ききれません。好堅尼は、
「どう考えても、師匠の様子はただごとではない」
と痛感しました。そして、師匠の枕元で、智境と二人で、
「もしや、富士大石寺を敵対視してきた仏罰ではないか」
「大石寺の教化姿勢を批判してきたのは、我らの僻目(ひがめ)ではなかったか」
などと話し合いました。
師匠を折伏
臨導の過酷な苦悩が仏罰ならば、謗法に染まりきった師匠を諌(いさ)めるのが弟子である、と気づいた好堅尼達は、まだ師匠の息あるうちに実行しようと決心しました。
そこで師匠の耳元で、次のように申し上げたのです。
「日蓮大聖人の御金言に、
『何(いか)に法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄にを(堕)つべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し』(御書一〇四〇ページ)
とあります。お師匠様の容態の酷(ひど)さは、どのように考えても、まさに謗法の罪によって無間地獄に堕ちる前相です。その原因となる謗法罪は、主として大石寺への誹謗によるものに違いないと考えます。」
「我ら二人は、お師匠様の教えに反し、大石寺の教義は正義、堅樹派双林寺の教義は邪義であると断定しました。この上は、二人揃(そろ)って大石寺に帰伏することが、お師匠様の謗法の罪障を消滅する唯一の報恩の道と信じます。どうか、この旨をよくよく御承知置きください」
熱涙(ねつるい)を振るい、二人で師匠に向かって最後の諌言(かんげん)をしました。すると、どうでしょう。その至誠が通じたのか、臨導が、さもうれしげに掌(たなごころ)を合わせたではありませんか。それだけでなく、見るみるうちに苦悩の悪相が消え、本当に安穏な表情を浮かべ、眠るようにして最期の時を迎えたのです。それは、明治六年六月二十日のことでした。
厳然たる実証、それが二人の目前で起こったのです。この体験を得た好堅尼らは、大石寺の信仰の正しさを強く、固く信じ、また肝に銘じたのでした。
好堅尼の苦悩
早速、師弟で犯した、たび重なる謗法罪を懺悔する手段を講じたい、そう願ってはいても、好堅尼は師匠の死後の整理など、なすべきことが山積しており、心ばかりが焦(あせ)って、行動が思うに任せない状態でした。
思えば、師匠の臨導の気質には執拗(しつよう)さがありましたが、人を導く立場にあったので、理解力は優れていました。その師匠の、今際(いまわ)の際(きわ)での諌言が成功したことは、好堅尼にとって少し誇らしいことでした。
ともあれ、そのあと、にわかに降りかかってきた深刻な問題がありました。それは、この双林寺をどうするのか、信徒達にどのように話をしたらよいのか、ということでした。このままにしておけば、お寺は謗法の拠点となり、さらに謗法の害毒を流し続けることになります。よって、なんとしても正法の寺、すなわち大石寺の末寺になるように、今ここで改めなければなりません。
とは言っても、けっして簡単なことではありません。信徒のだれ一人残すことなく折伏し、目を覚まさせ、謗法の邪(よこし)まな網から救い出さなければなりません。しかし、信徒は頑(かたくな)で、ものの道理が解らない、また仏教の知識もあまりない、ただ強がるばかりの者達です。わずかな世間的な知恵もない好堅尼達に、道理の上から納得させることは、極めて難しいことです。いったいどうすれば、大勢の信徒を正法に導くことができるのか、好堅尼と智境は一生懸命に考えを凝(こ)らしました。しかし、どれほど頭をひねっても、少しも良い知恵は出ません。
やがて好堅尼は「急(せ)いては事(こと)を仕(し)損(そん)じる」と考え、当分の間は信徒それぞれの判断に任せることにしました。しかし心のうちでは、二人とも「将来、必ずすべての者を救う」と固く誓っていたのです。そう肚(はら)は決めたものの、何も知らず、自分を慕ってくれる信徒達を、そのまま置き去りにしていくことへの断腸の思い、辛(つら)さ、苦しさ、悲しさ、それは言葉にならないほど大きなものでした。
二人の心に秘めた内容など露(つゆ)も知らない信徒達は、決まりごと通りに参集してきて、葬列用の道具を飾り、お供えを準備し、皆で立派に葬儀を執り行って、臨導を墓地に埋葬しました。その後、七七日忌までの法要も、仏前でも、墓前でも、例のように念仏無間、禅天魔など、四箇の格言が声高らかに唱えられたのです。
好堅尼達にとって、邪義の法式に則(のっと)って行われる師の葬儀を黙認することは、息のできないほど旨苦しく、悲しいことでした。同時に、そこに居(い)合わせた信徒達を再び折伏するにしても、自分の率直な信念を伝えるだけでは、改宗まではとてもこぎ着けられないのではないかと、実に心もとなく感じられました。
そこで、これまで信じてきた堅樹派の「どのような点が謗法なのか」を明らかにするために、まず一心不乱に御書を拝読しました。また、大石寺の信仰に関する書物がどこかにないものかと探していると、師匠の長持(ながもち)の中から、第五十二世日霑上人の『叱狗(しっく)抄』という書物が見つかりました。それは、かつて師匠の臨導が大石寺を批判するために書いた『聖語明鏡顕魔(せいごめいきょうけんま)論』という書物に対して、日霑上人が徹底的に破折されたものでした。この『叱狗抄』を、二人は貪(むさぼ)るように何度も何度も読み返し、日蓮大聖人の正義を学び直していきました。
好堅尼は「この本には、だれにでも理解できるように、大聖人の正義と堅樹派の邪義とが、懇切丁寧に認(したた)めてある。なんとすばらしい指南書だろうか」と驚きを禁じえないとともに、心のなかの疑惑の雲がたちまち晴れていくのを感じました。
双林寺信徒への折伏
好堅尼は、
「今まで、なんと申しわけないことをしていたのだろうか。まず、心から大石寺誹謗の罪をお詫(わ)び申し上げたい」
と懺悔する決意をしました。そして、まだ心中を吐露(とろ)することができなかった信徒達に対し、一気に折伏の行動に出たのです。
本堂の縁側から臨導が書写した双林寺の板本尊を投げ出すと、智境が「悪魔怨敵、退散せよ」と叫びながら、鉈(なた)で見事に真っ二つに割りました。その他、数幅の「ニセ本尊」をはじめ、臨導が国家諌暁の際に使用した念珠などの品々を、残らず焼き払ったのです。さらに折伏のため、大きな塔婆の表に「為 臨導比丘 正法誹謗 罪障消滅 抜苦与楽(ばっくよらく) 追善菩提」と認めて建立しました。
何も知らない信徒達に、二人の行動は大きな衝撃を与えました。信徒達は口々に、本堂の内外で二人に向けて、
「なんで、このような文句を書いた塔婆を建立するのだ」
「なんだ、正法誹謗とは」
「師匠の苦を抜いて楽を与えるとは、いったい、なんのことだ」
「今になって、どうして師匠を辱(はずかし)めるのだ」
などと叫んだのです。狂気の声、怒り声、罵(ののし)り声は、周囲に、いつまでも響き渡っていました。
そうなることを予期していた好堅尼と智境は、丁寧に、そして真剣に、臨導の病いの顛末(てんまつ)、引いては二人の覚悟について話しました。
「あなた方も、是非、私どもの心中を御理解いただき、共々に、唯一、日蓮大聖人の正法を伝える大石寺に帰伏していただきたい」
と訴えました。諄々(じゅんじゅん)と二人で精一杯、誠心込めて説明をしました。また、
「もっと早く皆様に相談すべきでしたが、容易ならぬ生死の一大事、まことに重要な問題ですから、まず自分達が肚を固く定めたあと、皆様を導こうと考えました。どうか御理解いただきたい」
「たった一度では到底、説明し尽せないので、皆様方も是非、幾度も、そして幾日でも、胸のうちで問い返していただきたい」
と懇請(こんせい)もしました。しかし、だれ一人として、二人の言葉を聞き入れる者はいません。
はては「師敵対」「法敵」「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)」「師子身中の虫」などと、散々罵ったのです。なかには、好堅尼達をすぐに放逐(ほうちく)しそうな剣幕の者や、感極まって、ただ泣き崩れる者もいました。正邪の分別など二の次で「信仰上のことは、あなた方が思うままにすればよい。しかし、双林寺本堂の香華灯明の給仕や法要は、今まで通りに執行していただきたい。また、壊した本尊は、元の通りに修復してもらいたい」などと、自分の家の葬儀や法事さえ行ってもらえれば、あとはどうでもよいと考える者もいました。
このように、信徒一人ひとりの反応は十人十色(といろ)でしたが、やはり好堅尼達に同調する者は一人も出てくることなく、二人は「信徒達を説得することができなかった。ならば潔(いさぎよ)く、この寺を去ろう」と判断し、覚悟を固めたのです。
もともと双林寺は、好堅尼の先祖である朝山家の功績が時の朝廷に認められ、その褒賞として一カ寺を永大無本寺にして、つまり永久に本山を持たない単立の寺とした上で、それを賜ったのですから、好堅尼の一存によって宗派を変更することも可能でした。しかし「信徒達との無用なトラブルを避けるため、自分達が寺を立ち退(の)こうと考えたのです。
将来、仏縁があれば、双林寺を大石寺の末寺として復興し、清浄の寺院とすることができるであろう、との一縷(いちる)の望みを残し、二人は双林寺を去りました。
第4章 帰伏
帰伏のお目通り
好堅尼と智境は双林寺を出て、大石寺に帰伏(きぶく)するために、あれこれと算段しつつ、地理的に便利なことから、京都東九条にある大石寺末の住本寺に、しばしば参詣しました。そこでお会いした講頭の加藤廉三(れんぞう)氏に、これまでの経緯や二人の目的などを話すと、すぐに快く相談に乗ってくれました。
加藤氏は在家の身でありながら、大石寺の教えに対する強い信念はもとより、『俱舎(くしゃ)論』や『唯識(ゆいしき)論』から天台三大部に至るまで、多くの研鑽(けんさん)を積んだ博学の人でした。その加藤氏が二人の帰伏を、ことのほか喜んでくださり、御法主上人にお会いできるよう、あれこれと懇切にお世話をしてくれたのです。
また、住本寺住職の、讃岐(さぬき)法華寺(本門寺)出身である小笠原泰英師にも幾度となくお目に掛かり、様々な御配慮を頂戴することができました。
好堅尼は、御隠尊日霑上人が明治七年五月二十六日に住本寺に巡教されるとの報を耳にしました。しかし残念なことに、自身はどうしても都合がつかなかったため、弟弟子である智境をお目通りさせていただくために伺わせました。お目通りの儀は滞りなく済み、日霑上人は次の巡教地である大阪へ出発されるということで、智境は小笠原師や講中の者と一緒に、伏見港までお見送りをしました。
好堅尼自身は五月三十日、日霑上人の巡教先である大阪へ赴きました。日霑上人が、靭仲通りの虎屋甚七という強信者の家に滞在されていることを聞き、そこを訪ねて、お目通りを願い出たのです。
ところが、蓮華寺信徒の吉村という医者が邪魔立てをし、好堅尼を虎屋の台所の隅に待たせたまま、二時間も放っておいたのです。日霑上人がおられるので、信徒達は頻繁に出入りしますから、好堅尼は衆目の的となって、ずいぶん居心地の悪い思いをしました。時間が経つにつれ好堅尼は、このままお目通りがかなわなかったらどうしようか、と少し憂鬱になり始めていました。
そこに、助け舟を出してくれた人がいます。蓮華寺講頭の森村平治氏です。
好堅尼が漠然と、
「大石寺の信徒達は消極的で排他的な者が多く、所詮『他門の謗法坊主だ。捨てておけ』と思っているところに、ヤブ医者の差し金も加わってのことだろうか。あるいは『異流儀の面倒なやつだ。へたに応対もできまい。森村講頭に来てもらえ』というようなことだろうか」
などと思っていると、それとは全く異なって、森村氏は丁寧に挨拶して来意を聞き取ると、すぐに心から無礼を詫びました。好堅尼も改めて、うやうやしく捨邪帰正の大要を述べ、日霑上人へのお目通りの取り次ぎをお願いしたのです。
あとで好堅尼が聞いたところによると、日霑上人は京都の加藤氏から、好堅尼のここに至るまでの経緯を既に聞いておられた、とのことでした。しかも加藤氏は、
「人がなんと言おうとも、この尼僧は将来、必ず大法のために御奉公できる人物であると思います。私が身元の保証人となりましょう」
とまで申し上げていた、というのです。
ともあれ、好堅尼は日霑上人に滞りなくお目通りがかない、これまでの謗法行為についての懺悔と、これからの大法への御奉公を、自分なりに精一杯の言葉で申し上げました。するとそれだけでも、たちまち心が晴れ渡っていくのを感じました。そこで、思い浮かんだ言葉で次の一首を詠んで、日霑上人に御披露申し上げました。
「玉鉾の 御法の道に 入相の かねて頼まん 富士の御山を」
この好堅尼の一途さが通じたのでしょうか。歌を受け取られた日霑上人はにっこりと微笑まれ、委細を承知してくださいました。こうして好堅尼は、日霑上人の御尊顔を拝することができ、ついに昨年来の帰伏という悲願をかなえることができたのです。この上ない悦びでした。
また、森村氏をはじめ、周囲の人々の喜びの笑顔を見て、先程の台所の憂鬱も一気に吹き飛んで、まさに天にも昇る心地でした。
好堅尼の大誓願
好堅尼と智境は揃って日霑上人にお目通りがかない、それぞれが直接、過去の謗法行為に対するお詫びを申し上げることができました。そこで二人は、今後どのようにして御法に尽くしていくか、それぞれの身の振り方を話し合いました。
その結果、智境は総本山にまします御当職・第五十五世日布上人の弟子にしていただけるようにお願いすることになりました。好堅尼は、たとえ臨導に誑かされていたとはいえ、日霑上人を目の敵として「臆病、売僧、外道、悪知識」と誹謗雑言の限りを尽くし、
「大石寺は折伏逆化をやめ、既に摂受門と成り下がっている、大聖人反逆の宗団である。よって無間地獄に堕ちることは疑いない」
と叫んだ経緯から、
「非礼の限りを尽くした日霑上人様だからこそ、徹底して心からお仕え申し上げ、不自惜身命の精神で御法のために精進したい」
と、改めて強く、固く決意したのです。と同時に、
「これまでに縁のあった異流儀の信徒すべてを折伏し、なんとしても正法に改めさせなければ…。さもなければ、自身は未来永劫、苦患を脱れることができない。なお余力があれば、元の師匠・臨導の謗法罪も、私の信心で償いたい」
と、鉄石の精神による大誓願を起こしました。
二人の進む道は決まりました。あとは、ひたすら日布上人と日霑上人にお願い申し上げるのみ、ということになりました。
御奉公の第一歩
第5章 修練時代
総本山への登山
明治八年七月八日、妙寿尼は初めから修行し直すため、京都から、まだ見ぬ総本山大石寺へ向けて出発しました。それは猛暑の最中(さなか)でした。草鞋(わらじ)に慣れない足に大きなマメができ、棒のように両足が固まって歩行困難になるなど、妙寿尼の想像を超えた道中となりました。それでも、ようやく富士にたどり着き、さらに歩みを進めて大宮(現在の静岡県富士宮市)まで来て、やっと「大石寺まであと二里」という表示を見つけました。
ほっとしたのもつかの間、そこからの道程が、いっそう険しいものでした。鬱蒼(うっそう)とした杉の森のなか、真っ赤な山門がはるかに見え隠れはするのですが、なかなかそこに行き着けません。両脚を引きずりながら、なんとか一歩、また一歩と前に足を踏み出すだけで精一杯でした。
こうして京都を出立してから四十日目、黒門に着いて汗をぬぐい、宿坊とされていた寂日坊に足を踏み入れ、ようやくひと息つくことができました。
大阪や讃岐を訪問した時とは異なり、妙寿尼の初登山は前もって総本山内各所に広く知らされていました。ですから、方丈でも宿坊でも、なんのトラブルもなく、妙寿尼はまるで御親(みおや)である日蓮大聖人の懐(ふところ)で眠る幼児のような気分で、長旅の疲れをすっかり癒やすことができました。
翌日、妙寿尼は御法主日布上人ならびに御隠尊第五十一世日英上人にお目通りを許していただき、さらに夢にまで見た御開扉を受け、直接、本門戒壇の大御本尊に読経・唱題することができました。そのあと、諸堂を巡拝し、総本山内の各所への挨拶もつつがなく済ませました。
総本山在勤
妙寿尼の心のなかに、様々な思いが湧き起こってきました。
「早速、自己流のお経の読み方を直そう」
「法華経と御書を読みたい。いや、その前に入手しなければ」
「ほかにも、何か読んでおくべき文献は」
「いや、何よりも総本山の風習やしきたりを会得しなければ」
「いやいや、まず環境に馴じむことが第一である」
妙寿尼の、本物の修行への思いは止まりません。
当時、総本山には尼僧が少なかったので、江戸時代のように尼僧部屋を設けていませんでした。また実際、本格的に総本山で仏法を学ぼうとする尼もいませんでした。そこで妙寿尼は、老年の妙順尼が留守居をしていた了性坊での同居を命じられたのです。
一つ屋根の下で過ごす老年の妙順尼は、御法門にはあまり明るくなさそうでしたが、当人は「仲間ができて、日々の退屈しのぎになる」とたいそう喜び、親切にしてくれました。そのなかの一つに、次のようなことがありました。妙寿尼に向かって、
「私は御隠尊様にお願いして、法華経の要品(ようほん)に振り仮名を付けていただき、それを読んでいます。あなたも、そうなさい。私が御隠尊様にお願いして差し上げましょう」
と言い、すぐに御隠居所に妙寿尼を連れていきました。二人の突然の来訪に、何ごとかと思われた日英上人でしたが、ことの次第を聞いて、妙順尼を、
「この妙寿尼は、あなたとは違うのだ」
と諭されました。横でそれを聞いていた妙寿尼は、かえって老尼のことを気の毒に思いました。
同居の尼僧からは修学できず、さりとて高僧に向かって、みだりに法義の質問など、できることではありません。それでもなんとか先輩方にお願いをし、相伝書なども拝見させていただき、それを写し取りながら学べるようになりました。
朝は丑寅の勤行に始まり、昼は針仕事、夜は書物の写し書き、という生活の繰り返しでした。こうした総本山での生活は、妙寿尼が緊張した心をもって行動していたため、わずかな在勤期間でも貴重な経験を積み重ねることができました。日蓮大聖人の仏法の真髄に触れ、多くの折伏資料も得ることができ、妙寿尼にとって有り難い日々だったのです。
とはいっても、その間、片時も妙寿尼が忘れることができなかったのは、九州弘教の大誓願でした。懺悔滅罪の堅固な思いから、双林寺時代に縁のあった九州の人達を、なんとしても折伏し、救ってあげたいという思いです。
それを日布上人にお話し申し上げ、妙寿尼はお暇(いとま)を願い出ました。日布上人は快く御許可くださっただけでなく、九州に着いてからの活動に際して、種々の力添えの御下命まで頂戴しました。また、御隠尊日英上人をはじめ、役僧や総本山に在勤しているたくさんの方々から奨励の餞別(せんべつ)を頂き、明治八年九月中旬、富士をあとにし、妙寿尼は布教の旅へ出発しました。
西へ西へと心は道を急(せ)いても、妙寿尼に体力があまりないため、言葉では言い表せないほどの苦労や困難を伴ったったのです。せっかくの名所や絶景も、目に入りません。それらの側を通っても、大好きな一首を詠むなどの余裕は、どこにもありませんでした。
第6章 九州弘教
日霑上人へのお給仕
妙寿尼が大阪の蓮華寺に到着すると、御師範日霑上人が大病を患(わずら)い、床に伏せっておられました。看護の人は大勢いましたが、妙寿尼はそのまま九州へ向かうことなどできません。直ちに看護の員数に入れてもらい、妙寿尼は粉骨砕身(ふんこつさいしん)、看病申し上げました。
聞くところによると、日霑上人は讃岐(さぬき)滞在時より持ち越されたお腹の病とのことでした。大阪の名医が手を尽くしても、なかなか全快となりません。しかも、蓮華寺信徒が次々とお見舞いに訪れたので、医者から、
「これでは、かえって御病体に良くない」
という御注意もいただきました。そこで、日霑上人は十二月に入ってから、お供(とも)を連れて堺の本伝寺に移られました。
本伝寺は小さなお寺で、閑静な所にあり、田村慈淳師という日霑上人の弟子が住職をしていました。そこに大阪からのお供である加藤慈雲師(のちの法乗院日照能化)、尼の水谷妙喜師、そして妙寿尼の三人が加わったのです。妙寿尼らが看護の日々を重ねているうち、その甲斐あって、日霑上人は次第に快方に向かわれました。
時を合わせたように、蓮華寺の檀信徒達から、日霑上人の帰着を望む声が強くなり、それを受けて、日霑上人は明治九年三月に蓮華寺に戻られました。四月には江戸堀北通りの同寺講頭・森村平治宅へ移られ、ここでは専(もっぱ)ら慈雲師と妙寿尼が御奉公させていただきました。
九州への道中
約十カ月の看病でしたが、御師範上人の大病全快に、わずかでもお役に立ったことを思えば、妙寿尼は無上のうれしさを感じていました。かねての、
「もしも自分達の真心が届かず、不幸にも御遷化になられていたらどうしよう。さすれば、
一、 謗法懺悔の対象・目的を失う
二、 帰命(きみょう)依止の柱礎を壊す
ということになってしまう。なんともったいないことだ」
との思いが一気に吹き飛んだからでもありました。
よって、九州での大折伏戦の開始が一年延びたとしても、これほどのお給仕の機会は得難く、実に貴重な体験となりました。
今が出立(しゅったつ)の時と考えた妙寿尼は、九州弘通(ぐづう)のための暇乞(いとまご)いを願い出たのです。
その際、日霑上人から久留米の今村武七宛の添え状を賜り、また種々の御教示や御激励までいただきました。さらに、徳島県美馬(みま)郡脇町の天野兵蔵への書状も託されました。
妙寿尼は、御師範上人の御慈悲あふれる励ましのお言葉や様々な御配慮によって、九州での折伏に大きな希望と確信を抱いたのでした。
徳島行きの船中
妙寿尼は、御師範日霑上人が全快された安心と、大いなる折伏の希望を満載して、明治九年八月十五日、安治川口の港から徳島行きの汽船に乗りました。
午前五時の出航予定でしたが、妙寿尼は日がな一日、船室内で待たされてしまいました。汽船が人々の交通手段になって間もない時代のことで、出航時間の遅れはよくあることでした。結局、この日、妙寿尼が乗る徳島行きが出たのは午後十時でした。
妙寿尼は、船室で出航を待つ間、御守御本尊を安置して方便品・寿量品を繰り返して読誦し、題目を二千遍ほど唱えて、航海の安全を祈りました。この時の御本尊は、去年、讃岐法華寺で得道授戒した際、日霑上人より拝受した御本尊と大聖人御影でした。普段は屋内の御内仏として拝していましたが、旅行中は常に身に帯し、片時も離れないようにしていました。
船に乗り合わせた乗客達は、妙寿尼の読経・唱題の声によって、自分達の酒盛りがしらけるのを嫌がりました。なかには「法華が仏に成るならば、何やらが肥料になる。オーソレソレ、犬の糞(くそ)」と言ってゲラゲラ笑って馬鹿にしたり、または「ダブダブダブダブ、やかましい」と怒り出す人もいました。思い思いの悪口(あっく)雑言(ぞうごん)でしたが、妙寿尼はどこ吹く風と受け流して、勤行を終えました。
妙寿尼が、ふと気がついた時には、船は既に河口を離れて沖合いに出ていました。ところが、ほどなく船の中が大騒ぎになったのです。ボイラーが故障して運航できなくなり、やむをえず碇(いかり)を下ろし、全力で修繕に取り掛かっている、とのことでした。終夜、ボイラーを修理する槌音(つちおと)が船内に高く響き渡りました。妙寿尼の勤行を馬鹿にしていた乗客達も、次第に心細くなり、やがてすっかりおとなしくなりました。しばらくしてから、船長が乗客の所にやってきて、大きな声で報告をしました。
「昨夜、長い間、お経をあげていただいた御利益で、今回の故障は大事に至らずに済みました。修繕も順調にはかどっています。御心配いりません。会社および乗組員はもちろん、お客様御一同も、まずもって幸いなことでした。すべては、この御僧侶様のお陰です。お礼の印に、御開帳願わねばすまないことと思います」
そこで初めて、乗客達も御本尊のお力に気づいたのか、だれ一人、船長の言葉に意義を差し挟む者はいませんでした。直ちに同乗者一同が思い思いのお供え物をして、御本尊に向かって合掌し、一緒に唱題しました。妙寿尼は、
「この仏縁は、直ちに入信とはいかなくても、未来にわたる妙法への結縁になる」
と心から喜び、またそれを祈念しつつ、真剣に唱題をしました。
その後、にわかに妙寿尼への待遇は良くなりました。徳島に到着するまでに、船中で三度もお湯を使わせてくれ、そのお陰で、八月の暑さに着物が汗ばんで耐え難いところを快適に過ごすことができたのです。さらに下船の時には、ボーイを付けて荷物を持たせ、丁重に波止場(はとば)まで送ってくれました。
脇町での道草
徳島に到着した妙寿尼は、その足で港口の富田浦にある本玄寺(大正二年、岐阜県美濃市に移転)に参詣しました。その後、宿を取り、旅の疲れを癒(い)やした翌朝、妙寿尼は脇町に住む信徒の天野兵蔵宅に向かいました。市街地から、吉野川沿いを通って脇町に至る撫養(むや)街道を進んだのです。
昼食後、あまりの暑さに耐えかねて大きな楠(くすのき)の陰で涼を取っていると、なんと兵蔵の弟に当たる人物と出会いました。妙寿尼が、これから兵蔵を訪ねることを告げると、弟は快く自分の持ち船を出し、脇町まで送ってくれました。これで徒歩で四十四キロのところを、座ったまま、川風に吹かれ、快適に移動することができたのです。
兵蔵宅に到着すると、兵蔵が出てきて、
「ここは辺境の地ですから、訪れてくださる御僧侶も少ない。本当によくぞお越しくださいました」
と言い、妙寿尼の来訪を心から喜んでくれました。歓待を受けたあと、その夜は、天野家の隣りの信徒・福島徳平宅に泊まりました。
ところで、この時、妙寿尼はちょっとした失敗をしました。それは、福島宅のお風呂が五右衛門風呂だったので、妙寿尼は弥次喜多(やじきた)道中の滑稽(こっけい)話そのままを再現してしまったのです。このお風呂の入浴方法は、湯船に浮いている蓋(ふた)のような板に乗って、それを足で沈めて底板にし、お湯に浸かるというものです。ところが、妙寿尼はその浮き板を取って入浴したのです。風呂釜の底は、熱くてたまりません。普通なら足に大火傷(やけど)を負うところでしたが、妙寿尼はなんとか、ことなきを得ました。徳平は心配しましたが、全くケガのない無事な足を見て、
「法華経に『大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わじ』と説かれる通り、これはまさに御利益だ」
と興奮して、そのことを兵蔵はじめ、近隣の人々に盛んに言い広めました。
「なんと有り難い尼様だ」
すぐに近所に話が広がり、またそれがきっかけとなって、妙寿尼は数名の村人に対して信心の話もでき、二十日間を越す滞在で多少の入信者を見ることができました。
妙寿尼にとっては、多度津(たどつ)へ行く途中に立ち寄っただけの徳島で、にわかに折伏の成果が出たことは、実に有意義なことでした。
明治九年九月十六日、徳島の人々に惜しまれながら九州に向けて脇町をあとにしました。
山越え、海越え
妙寿尼は、小倉行きの船が出る多度津へ向かいました。船で九州に渡るためです。ところが、徳島から多度津に至る山越えの道は、前日の暴風雨のため、倒木や土砂で塞がれたり、道路自体が崩れた所もあって、歩みを運ぶのも容易ではありません。しかも足は痛み、荷物は重く、百歩進んではひと休みするような、極めて困難な道中でした。結局、百キロほどの道のりに五日かかり、日暮れにやっと多度津にたどり着いて、妙寿尼は小倉行きの船に乗ることができました。
予定通り船は出航し、順調に西へ進みました。瀬戸内海の島影が少なくなり、船は周防灘(すおうなだ)に入ると、はるかかなたに青く霞(かす)んだ山並みが見えます。それが大願の地、九州です。
船が関門海峡に差し掛かりました。数年前、旧主君、毛利敬親(たかちか)公の危機に接し、妙寿尼が急いで訪れた思い出の場所です。妙寿尼には懐かしくもありましたが、あのころ、何も知らなかったとはいえ、大謗法に染まっていたことを思うと、実に複雑な心境となりました。そこで思いを新たにし、九州弘教に向け、妙寿尼は自ら我が身を引き締めました。
やがて船は、紫川河口の小倉港に接岸しました。
中津街道の夜
九月二十三日の午後五時前、ついに豊前(福岡県)の小倉に到着しました。二日間の船旅によって、山越えで痛めた妙寿尼の足は、だいぶん楽になっていました。小倉にはこれといった用もないので、一刻も早く行事町(現行橋市)の信徒の所まで行こうと、ついつい妙寿尼は欲を出してしまいました。日が暮れるのも厭(いと)わずに山道を進み、二十四キロほどの道程を歩きぬこうとしたのです。
しかし実際に、中津口から中津街道を進んでいくと、緩やかながらも上り坂が続いていて、、体力のない妙寿尼には堪(こた)えました。気がつくと、既に夜になっていました。見知らぬ土地で、周囲に宿も見当たりません。妙寿尼が、
「このまま野宿するしかないのか」
と諦(あきら)めかけたところで、一軒のお茶屋が見つかりました。しばらく休んでいると、妙寿尼のあとから二人連れが入ってきました。それとなく話し掛けると、妙寿尼の訪問先と同じ、行事町に住んでいる人達でした。そこで茶屋のお婆さんが気を利かして、二人に、妙寿尼との同道を頼んでくれました。すると、二人は、
「今から行事まで行くと、普通の人の足でも十二時ごろになってしまいます。お疲れの尼様には、とても難しい道のりだと思います。そこで、ここから少し歩けば我々が知っている宿がありますので、そこへ御案内いたしましょう」
と、親切にお世話をしてくれました。
行ってみると、そこは昔からの宿場町の下曽根という所でした。夜更けになってしまいましたが、やっと宿に着き、ひと安心しました。けれども、それもつかの間、空き座敷がなく、見知らぬ旅人との相部屋となりました。部屋に入ると、年齢が六十余りと四十前後と見受けられる、男性の親子連れがいました。妙寿尼は少し心配でしたが「仕方がない、夜露をしのげるだけでも有り難いものだ」と思い直しました。
すると、父親のほうが声を掛けてきました。
「御僧侶様は夕方、小倉に着いたペルリン号にお乗りでしたね。私達二人も、大阪で用を済ませた帰途で、同じ船に乗っておりました。私どもは、伊予国の某(なにがし)という士族です。私達も、つい今し方、ここに着きました」
妙寿尼は、身元の確かさを聞いて安心しました。しかも翌日には、息子のほうが妙寿尼の荷物を担い、行事町の中原甚七の門口(かどぐち)まで送ってくれたのです。
昨夜、道で出会った二人連れといい、この士族の親子といい、なんの縁故もない方々に親切にしていただくと、些細なことでも御本仏大聖人の御計らいに違いないと思えて、妙寿尼は心より御本尊様に感謝申し上げました。
行橋の折伏と信徒の活気
九月二十四日の正午、行事町の中原甚七の家に着いてみると、甚七本人は不在でした。妻のスエは妙寿尼のことを、得体(えたい)の知れない乞食(こじき)坊主とでも思ったのでしょうか、妙寿尼が挨拶をしても、けんもほろろの対応で取り付く島もありません。妙寿尼が、
「梅田栄三郎という人の家は、どちらにあるのでしょうか」
と尋ねると、スエは仕方なく、お安という娘を栄三郎の家へと遣わし、
「薄汚い尼さんが訪ねてきているが、どうしたらよいか」
と伝言させました。知らせを聞き、急いで中原の家へやってきた栄三郎が、妙寿尼を見た途端、直ちに深々と頭を下げる様子を見て、スエは初めて気づきました。娘に、
「この方は御本山からのお客僧だ。とんでもないことをした。早くお父さんを呼んでこい」
と言い、今度は甚七を呼びに行かせました。妙寿尼に対しても、今までの無礼を深く詫(わ)び、手の平を返したように厚くもてなしたので、妙寿尼はようやく落ち着くことができました。
この日は、御開山日興上人の旧暦の御命日でした。妙寿尼は夜になると、同地の講頭・清田良吉宅へ赴き、近隣の信徒と共に、御報恩御講を厳粛に奉修しました。
長狭川の北に位置する行事町は、後年、南側にあった大橋町と合併し、行橋(ゆくはし)町となりました。当時、この周辺には数軒の信徒しかおらず、最も近い大石寺の末寺は徳島の敬台寺という状況でしたから、正法の僧侶とは縁遠い土地柄でした。当然のことながら、日蓮大聖人の正当な教義、説法に飢えていた人々は皆、妙寿尼を珍重することひとしおであり、自宅に逗留(とうりゅう)してくれるよう代わるがわる申し出てきました。
しばらくすると、妙寿尼は講頭の清田宅や同じ大橋町の古賀仙平宅、行事町の中原宅などを拠点とし、折伏を開始しました。また、小野、村田、富士川等の信徒も、妙寿尼の助力を得て折伏に励んだ結果、異流儀の人達をはじめ数十名を一気に入信させることができました。折伏の実践によって信徒が増え、行橋の講中にも活気が出てきたので、妙寿尼は大いに喜びました。
しかし、妙寿尼の最大の目的は久留米を本拠地とし、広く八方にまで正法を弘めることでした。そのため、行橋に長く滞在することはできず、妙寿尼は
「久留米に落ち着けば、ここまでは、急げば三日ほどで来ることができます。そうなれば時々、訪ねてまいります」
と言って、名残(なごり)惜しくも別れを告げ、梅田栄三郎と共に筑後の久留米に向かいました。
香春(かわら)、猪膝(いのひざ)、大隈(おおくま)、八丁越(はっちょうごえ)で、山また山という難所を通り、四日目にようやく久留米に着きました。今度は、お供がいたので少し楽でしたが、それでも柔弱(かよわ)な身体への負担は大きく、辛く、厳しい徒歩での行程でした。
今村武七の屋敷
久留米に入った妙寿尼は、庄島竪(たて)町の今村武七の屋敷に向かいました。今村武七は文筆の才がある温厚な人物で、久留米一円の中心的な信徒でした。武七は久留米藩大坂蔵屋敷の目付役で、安政年間に上役の斉藤兵蔵に折伏され、大石寺の信仰を始めていました。以来、常に九州弘教の志を持っていた武七は時々、久留米に帰っては縁ある人々を折伏していました。
やがて講中が組織され、慶応四(一八六八)年二月十六日には、日霑上人より「本門広布講中発起」の御本尊が授与されています。明治四年、蔵屋敷の閉鎖により、久留米に戻り、この地の異流儀(堅樹派)の長であった橋爪佐平を破折して入信させ、その後、佐平と共々、一層の折伏に励んでいました。
そこに、後年「折伏の妙手」と謳(うた)われた妙寿尼を迎えたのです。
武七の家に着いた妙寿尼を迎えたのは、妻のハルです。まるで行事町の中原スエを再現したかのように、ハルは内玄関の戸口に突っ立ったままで無愛想(ぶあいそう)な挨拶をし、妙寿尼を迎えました。妙寿尼は、
「このように初めての人に接するのは、九州人独特の作法かも知れない」
と思いましたが、自分の身元が判明すれば、たちまち厚くもてなしてくれることも判っていました。ですから、ハルの態度を内心おかしく思いながらも、日霑上人から賜った武七宛の添え状を、ハルに渡したのでした。添え状には、次のように記されていました。
良い機会なので一筆申し上げます。残暑の砌(みぎり)、御健勝にて相(あい)変わらず大法の御修行、御教化の御ことと大慶の至りに存じます。さて、かの異流者・双林寺の故臨導の弟子好堅尼は、一昨年に、それまでの邪義を改めて謝罪降伏を決意し、去年の夏に、わざわざ讃岐まで渡海し、深く懺悔に及んで妙寿と名を改め、すぐさま総本山へも登山して、御戒壇様への礼拝も相かないました。なお、これまでの謗法を懺悔するため、九州の地の異流の者どもを教導したいと発願し、まさに今、九州に渡ることになりました。到着の上は、何分にも御助力のほど、お頼み申します。委細は当人から直接お聞きください。まずは、右お願いまで。恐々謹言。
七月二十九日
日 霑 花押
今村武七殿
参る
あとで家の中から出てきて、ハルから添え状を受け取った武七は、添え状を読み終わるや否や仰天し、妻に、
「これは御本山の御僧侶様、たいへん失礼をいたしました。おい、早く大玄関を開けろ」
と命じました。ハルは慌てて大玄関を開けながら、先程の失礼を詫びました。武七は、さらに、
「なんとうれしいことだ。すぐに、橋爪佐平に知らせよ」
と妻に言いつけました。
知らせを耳にすると、すぐに橋爪佐平は駆けつけました。妙寿尼と今村武七とのやりとりを傍(かたわ)らで聞き、ワッと男泣きしました。途切れとぎれに、
「よくぞ、あなた様は邪教を捨て、改宗なされました。本当に有り難いことです、有り難いことです」
と喜びを口にしただけで、あとは全く声になりませんでした。
妙寿尼は以後、この今村家を本陣として、弘教の手を伸ばすことにしたのです。
折伏の一歩
十月十五日から、妙寿尼は橋爪佐平の案内で、久留米下方(しもかた)の折伏に出向きました。まず、その周辺の異流儀の講頭であった三潴(みずま)郡江(え)上(がみ)村の永松嘉一宅を訪れ、妻のスマと対論しました。スマは男勝りの女性で、しかも熱心に異流儀を信仰していたので、妙寿尼の折伏に対して一々、猛烈に反論したのです。しかし、理路整然と正法の道理を説く妙寿尼の言葉に心を動かされ、ついに第一番の改宗者となりました。夫の嘉一は頑固一徹なだけに多少手こずりましたが、それでも妻より四十五日遅れただけで帰伏しました。
異流儀信仰者の反応
永松夫婦改宗の話を伝え聞いた江上村の渋田勇七、小柳村(城島(じょうじま)町六丁原(ろくちょうばる))の下坂重七、同弥七、同治右衛門、同恵助等は急遽、一堂に会して相談をしました。
「頼みにしていたのに、永松スマが大石寺の信仰に帰依をしたことは、まことに残念だ。あの尼様は、双林寺で鍛え上げた法門を、さらに本場の大石寺で磨き上げた上に、今村武七があと押ししている。
しかも、強信者であった橋爪佐平までもが改宗し、共に折伏に歩いている。これでは、とても我々では歯が立たない。どうしたらいいだろうか」
もともと、このころ異流儀を信仰する者達の間では、
「臨導房が説いていた堅樹派の教えと、好堅尼(妙寿尼)が改宗した大石寺の信仰とでは、いったいどちらが正しい教えなのか」
ということについて、活発に議論されていました。しかし、いまだ「しばらく様子を見よう」という軟派と、「妙寿尼は師敵対の逆賊である」との硬派に二分され、異流義間で見解を統一するまでには至らなかったのです。
そこに、妙寿尼が乗り込んできたのですから、たまったものではありません。簡単に話がまとまるはずもなく、結局、
「ここは筑前の阿竹(おたけ)さんに相談し、よい知恵を借りよう」
ということになりました。
阿竹という人は女性で、筑前の遠賀(おんが)郡中間村に住んでおり、筑豊一帯の異流義の責任者として、人々から厚い信頼を集めていました。阿竹のもとへ走ったのは、渋田吉平でした。この時、渋田が往復したのは五十里、約二百キロに及んでいます。いかに妙寿尼の破折が恐ろしかったとはいえ、昼夜をいとわず、それだけの道程を走って移動したのですから、よほど勇み立ってのことだったに違いありません。
このことに限らず、いずれの地においても堅樹派の信仰者は、極めて熱烈でした。それぞれが、もともと国から禁じられたも同然の教えであることは認識しており、その信仰によって受ける可能性のある入牢(じゅろう)や所払いなどの刑罰にも尻込みすることがなかったのです。否(いな)、むしろ困難を求め、あらゆる苦難を甘受(かんじゅ)しなければ仏と諸天善神に対して信仰者としての面目が立たないという考え方でした。とりわけ九州は、その色が濃かったようです。
渋田吉平一家の入信
妙寿尼らを阻止する良い方法を教えてもらうため、渋田吉平が筑前に行っている間、なんと吉平の妻サヨノと妹のキサノが改宗してしまいました。キサノは、妙寿尼が以前、長州に滞在していた時に、お側に仕えていた女性でした。早速、二人は、臨導が書いた本尊を取り除き、妙寿尼より下付していただいた正しい御本尊を奉掲したのです。サヨノが、このように夫の許可なく謗法払いをし、さらに正当な御本尊まで御安置したことは、当時の女性としては極めて重大な決断でした。
帰宅した吉平は、せっかく筑前まで赴いたのに、妙寿尼らに対抗する良い方法がなかったことで、すっかり落胆していました。それでも、いつものように仏壇に帰宅の挨拶をしようとして、びっくりしました。仏壇の中には全く違う御本尊が安置されているではありませんか。あまりの驚きと、やる方ない怒りのため、吉平は声を荒げて怒鳴り散らしました。
「なんたる師敵、法敵の行為だ。法敵撃退の御相談に出かけていた留守に、勝手に妻が敵に降参し、しかも敵の本尊を祀(まつ)るなどとは。言う言葉もない不貞(ふてい)の妻。一時(いっとき)も家に置くことはできない」
といきり立ち、サヨノを睨(にら)みつけました。しかし何があろうと、正しい信仰を貫く堅固な覚悟ができていたサヨノは、夫の剣幕に少しも動揺しません。反対に、吉平をなだめ静め、そして堂々と言いきったのです。
「師敵、法敵、仏敵の大謗法は、私ではありません。あなたこそ、日蓮大聖人の御聖意(しょうい)に背く大謗法罪に与同しているのです。妻として、私は大切な夫を救うために、正しい御本尊を下付していただいただけのことです。この道理が解らないのであれば、これからじっくりと御法門をお聴きください」
と言い放ち、五人の子供と共に家を出て、永松嘉一の家に身を寄せてしまったのです。
妙寿尼に既に帰依していた永松嘉一は、堅樹派時代の講頭であり、サヨノ夫婦の仲人でもありました。永松嘉一は、サヨノから顛末(てんまつ)を聞き、妻のスマと共に吉平の家に向かいました。嘉一夫妻の顔を見た途端、吉平は怒りに任せ、
「法敵の言うことなど、何一つ聞く必要はない」
と両手で耳を覆(おお)いました。しかし嘉一夫妻は、その手を引きはがして、大石寺の正統法門を諄々(じゅんじゅん)と説いて聞かせたのです。御法門が少しずつ耳に入り、ついに観念した吉平も、妙寿尼に帰伏する決意をしました。吉平は、永松宅に身を寄せた妻子の所へ行き、妻達に心から詫(わ)びました。
渋田家では、妻のサヨノが正しい御本尊を安置したことにより、夫の大反対を受けるという障魔が競いましたが、サヨノが少しも怯(ひる)むことなく信心を貫いた結果、夫婦、家族が揃(そろ)って、正法を信仰することができるようになったのです。
正しい信仰に目覚めた渋田夫妻の喜びは譬えようもなく、その姿を目の当たりにした妙寿尼達もうれしさのあまり、夜となく昼となく、皆で法門談議に花を咲かせました。だれもが折伏の歓喜に酔い痴(し)れ、さらなる弘教への決意を新たにしたのです。
こうして妙寿尼達は、つい三日間も吉平宅に滞在してしまいました。
吉平宅をあとにした妙寿尼達は、さらに渋田勇七の家に押し掛け、三日間で家内全員を折伏することができました。
久留米下方方面の折伏
今度は永松スマの案内により、妙寿尼は久留米から西に二キロほどの四郎丸(しろうまる)村に折伏に行きました。そこに住んでいる村井兄弟が折伏相手です。
しかし訪問してみると、村井家の兄弟四人は、道理が通じないばかりか、だれにでも解るような単純なことさえ、全く聞き入れようとしません。妙寿尼は、ここで短気を起こしても、彼らが頑(かたくな)に心を閉ざしてしまうだけだと判断し、嫌な顔一つせずに堪(た)え忍びながら折伏し続けました。一晩泊まって、翌日の正午過ぎまで丁寧に話しましたが取り合ってくれません。昨晩から滞在している妙寿尼等の食事すら、用意してもらえませんでした。妙寿尼とスマは、空腹でもあったので、とりあえず江上村に帰ることにしました。
食事を摂り、元気を取りもどした二人ですが、夕方から妙寿尼達の身体がかゆくてたまりません。調べると、たくさんの大シラミです。村井宅でもらったに違いありません。つい、
「村井兄弟が、自分達にはできないので、代わりに『眷属(けんぞく)のシラミ殿』を使って、こちらをやっつけたつもりか」
と思ってしまうほどの不快感で、妙寿尼は単衣(ひとえ)(着物)を一枚、捨てることにしました。
この出来事は、着物一枚の損害だけにとどまらず、村井家の折伏自体をあきらめようか、という迷いを生じさせるほど、妙寿尼らに大きな影響を与えました。しかし、妙寿尼は、
「だれかが話をしなければ、いつまで経っても彼らは救われない。断られてから、本当の折伏は始まるものだ」
と思い直しました。
翌日は気分を換え、十二キロほど東の太田村へ向かい、弓削(ゆげ)善七の家に伺いました。昼食も摂(と)らずに折伏し、主人の善七はやっと説き伏せましたが、妻のほうは終始、膨(ふく)れっ面(つら)のままで不承知に終わりました。
さらに、若菜村の若菜佐吉の家まで足を延ばしました。佐吉は素直に話を聞き、理解も早かったので、一晩で家中の者を折伏することができました。
十月二十八日は旧暦の九月十二日に当たるので、妙寿尼らは竜口法難会を執り行うため、久しぶりに今村宅に帰りました。
一回目の下方方面への折伏は、半月足らずでしたが、妙寿尼にとって、自ら、
「十二分の御奉公ができた」
と思うほど、満足のいくものとなりました。案内役の橋爪佐平に苦労をかけ、また永松スマには骨を折らせましたが、これもかつて異流義を信仰していた謗法行為の罪障を消滅するための修行です。皆がそれを承知していたので、一人ひとりの心中の満足感は言い表せないほどでした。
竜口法難会は読経・唱題・説法と順次に修され、参詣した久留米の信徒は少数でしたが、歓喜に満ちあふれた法会(ほうえ)となりました。法要後の信徒同士の歓談は皆、今にも広宣流布しそうな話しぶりで、頼もしい限りの一時となりました。
また、この時、秋山種という信徒が「寒い冬支度のために」と、鼠色の綿入れをはじめ、数々の御供養の品を納めたのです。女性ですが講中随一の教学力を持ち、実直で信仰の心得が確かな人でした。
「慈・忍・信」のお手紙
このころ、秋月(あきづき)騒動が起こりました。筑前秋月の旧藩士である宮崎車之助らが、明治新政府の樹立を快く思わず、熊本の神風連(しんぷうれん)の乱に触発されて、幕府時代の政治形態に戻そうとした反乱です。乃木希典(まれすけ)率いる小倉鎮台(ちんだい)(官軍)の攻撃で敗走しましたが、残党は秋月に戻って反乱を続けました。しかし結局、皆が自害、処刑、逮捕されました。
その騒動を心配された日霑上人から、妙寿尼は「慈・忍・信」のお手紙を頂いています。
猛暑のなか、四国から九州に向かって乗船してから、便りが絶えていたので大いに案じていました。そこに過日、広正から『無事に筑後に到着した』との報告があり、少しは安心することができました。しかし、詳細は判らなかったので、この手紙によって事情がはっきりし、大変めでたく思っています。
本山に帰って初めて、熊本や萩などの反乱の様子を聞き、まことに驚嘆しました。そなたがどれほど心を痛めておられるかと遠くから察していたところ、間もなく鎮静に向かったことを新聞紙上で知り、ひとまず安心しました。
久留米における異流義を既に四十余家降伏させ、竜口法難会もにぎにぎしく奉修されたとのこと、あっぱれな手柄であり、この上ない喜びのことと思います。さらに筑前方面なども、必ず今年中に異流義を退治する旨の誓いを聞き、当方はたいへん感動し、ことのほか喜んでいます。
我慢(がまん)偏執(へんしゅう)・理非(りひ)不弁(ふべん)の異流儀の人への折伏は容易ならぬことでしょうが、ひとえに『慈・忍・信』の三力を強盛(ごうじょう)にし、よくよく注意をして行うようにしなさい。
今村武七が病を患っていることは、なんとも嘆かわしいことと思います。ついでがあれば、よろしく伝えてください。
久留米城下に一カ寺を建立したいとの思いは、折伏されて、新たに大石寺の信心を始めた者達を含めた一同の志願と伺いました。至極当然のことと思います。新しい寺に赴任させる住職は、なかなかふさわしい者がいないので、そちらの地方出身の広正か、あるいはそこに住んで折伏の拠点としている、あなたしかいないように思います。いずれにしても、新寺建立を成し遂げた暁(あかつき)に、直ちに総本山へ願い出られるとよいでしょう。
旧十月十六日
隠居 日 霑 花押
妙寿どの御返事
お手紙には、御師範日霑上人の御慈悲があふれていました。これらが妙寿尼の大きな力となって、このあとの死身弘法の実践に昇華されていくのです。
再度の下方弘教
妙寿尼は、十一月一日から第二回の下方の弘教、異流義征伐に出掛けました。今回も、案内役は永松スマです。狭い村なので、妙寿尼らによる折伏活動の噂(うわさ)が既に知れ渡っていて、意外に早く大石寺の信仰を始める決意に至る者が出てきました。
妙寿尼らは、まず高築(たかつき)村の梯増右衛門の家を訪問して三泊しましたが、言い争うこともなく、一家全員を折伏できました。次に、犬塚村の川野佐平治(富士本広正師の父)の家で二泊し、村人を折伏した結果、四、五軒の者達を改宗させました。そこで妙寿尼は、ひとまず永松の家に戻り、一回目の弘教の折、新たに大石寺の信仰を始めた人達を励ますことにしました。
妙寿尼は十一月二十四日に久留米に戻り、橋爪佐平の家で、大勢の参詣者と共に活気みなぎる御会式(おえしき)を奉修しました。
これらの状況を、小柳村(城島町六丁原(ろくちょうばる))の下坂家関係四軒の人達も、知らない振りをすることができなくなり、自分達から大石寺の信仰への帰伏を申し出てきました。
さらに十一月三十日から、三回目の弘教に出発しました。今度は下方ではなく、久留米の西にある長門石村へ足を運びました。ここでは、山下元平の家に滞在しながら、まず山下金八を大石寺の信仰に入らせ、ほかにも三軒の人達を入信させました。
また妙寿尼は、川島村に住んでいる異流義の新原(しんばる)平兵衛と対論をしました。平兵衛とは、数度にわたる法論となりましたが、日霑上人からも異流義破折の法門書を賜っていたので、ことごとく屈服させることができました。
また、久留米下方の折伏は、異流義から大石寺の信仰に移る人が徐々に増え、さらに一般他宗からの入信者も出てきました。
十二月の末になって、秋月騒動の影響により久留米城下に旅人の宿泊が禁止されたので、妙寿尼は隣接する大石村の古賀新六の家に移ることにしました。
そして新六の家で、妙寿尼は明治十年の正月を祝いました。
世法、仏法ともに一定の住処を定めないのは、それなりの味わいがあるものですが、仮り住まいの家に一人でも正法不信の者がいると、つい気分が沈んでしまいます。
新六の老父は近所でも有名な頑固者で、御法門の話となると全く聞き入れません。しかし、三日三晩をかけ、様々な方法を用い、あらゆる角度から折伏をして、やっと大石寺の信仰し入らせることに成功しました。この時の折伏は、大変な労力を強いられました。こうして新六の家は、一家和楽の信心環境が整ったのです。
また、長門石(ながといし)村の山下元平も改宗しました。
二月十五日、西南戦争が勃発しました。熊本周辺の争いで、あまり周囲には波及しませんでした。とは言っても、久留米からさほど遠くない地での戦でしたから、日霑上人は妙寿尼の安否を深く気遣われ、弟弟子の広正もたいへん心配していました。
実際、戦火こそ久留米までは及びませんでしたが、砲弾の音が聞こえたり、町中で負傷兵の姿を見かけるようになり、一時は市中の人々も恐れと不安で、落ち着かない日々を過ごしました。しかし、これがかえって人々の信仰に対する関心を高くさせ、大石寺の信仰に入る人も増えたのです。
筑豊一円の折伏計画
明治十年八月二十六日、妙寿尼は久留米をあとにしました。まず遠賀郡中間に向かい、豊前にも寄って、さらに京都と大阪を経由し、総本山へ登山するためでした。
中間では筑豊一円の異流儀の中心者であった阿竹(おたけ)を折伏し、豊前(ぶぜん)(福岡県東部)では筑後(福岡県南部)の信徒との顔つなぎや連絡を取り、さらに京都と大阪ではお世話になった方々にお礼かたがた折伏状況を知らせ、総本山では筑後の異流儀をほぼ破折し尽くしたことを御報告する計画でした。
阿竹の折伏と筑後の信徒との交流のため、永松嘉一、橋爪佐平夫妻、大塚嘉右衛門の四人が行橋(ゆくはし)までお供をしました。
筑前の阿竹への折伏
妙寿尼を案内し、永松達は阿竹の家に行きました。すると、阿竹の年老いた母が大病を患い、床に伏せていました。
この老母が、既に阿竹に幾度となく「妙寿尼と法論しても勝つ見込みはないから、相手にするな。負けたことが知れ渡ると、筑前の堅樹派全体の恥になる」と言い聞かせていたのです。ですから阿竹本人も、妙寿尼達が堅樹派が邪義である理由を挙げ、様々な方法で破折しても、全く関わり合おうとしませんでした。
法門の道理が通用しないのであればと、妙寿尼が、かつての自分の師・臨導(りんどう)の悪病や臨終の悪相のことを話しましたが、全く聞く耳を持ちません。のみならず、「師匠の臨導が堕地獄ならば、私達も共に堕ちるだけです」と言いきる始末です。やむをえず、妙寿尼は、阿竹に対して「師匠は針、弟子は糸です。師匠が地獄の罪人ならば、阿竹も無間地獄の罪人になることは疑いない。そのような道を選ぶ、あなたが哀れでなりません」と最後の宣告をし、そのまま別れざるをえませんでした。
きっと、まともな対応は期待できないだろうと考え、それぞれ弁当を持参しましたが、やはりお茶の一杯も出ることはありませんでした。そこで青空の下、黒埼の岩上に座って、味噌漬けの大根を丸かじりし、小川の水をすくい取って飲み、みんなで昼食を摂りました。
ちなみに、阿竹と姉、母の三人は、誹謗正法の大罪によって現罰を被(こうむ)り、後年、皆、狂い死にするという悲惨な最期を遂(と)げました。
豊前の異流義をほとんど改宗
豊前までの五日間の道中は山また山の難所続きで、妙寿尼らには何も得るものはありませんでした。しかし、たどり着いた行橋では大歓迎され、昨年来の妙寿尼の活躍を、皆が自分のことのように喜んでくれました。また、計画していた信徒同士の交流は、豊前と筑後の信徒といっても、同じ信仰をする者同士、歓談は時間を忘れて、いつまでも続きました。
歓迎の一時(ひととき)が過ぎると、次は折伏です。妙寿尼達は、宝屋(元講頭・清田良吉)等に宿泊して、翌日から行橋の人達と共に近隣の異流義を軒並(のきな)み訪問し、すべて改宗させました。これによって、筑後と豊前の異流義をほぼ平定することができ、妙寿尼の大願は、半ば成就しました。
妙寿尼は、この行橋で、久留米から随行した永松嘉一、橋爪佐平、大塚嘉右衛門、橋爪キサノを帰し、新たに中原スエと村田和平の母と共に、京都へ向かうことにしました。女性ばかりの久しぶりのにぎやかな道中となり、妙寿尼は船旅を心から満喫することができました。
京都に到着すると、加藤廉三(れんぞう)氏(住本寺講頭)など、妙寿尼が大石寺へ帰伏する際、たいへんお世話になった方々にお礼を言い、さらに折伏の誓願が半ば成就したことを報告しました。妙寿尼の報告を、皆が口々に喜んでくれました。
次いで妙寿尼は、弟弟子の広正師が住職をしている大阪池田の源立(げんりゅう)寺に足を運びました。しかし、各地を折伏に回っていて不在とのことで、広正師に会うことができず、結局、妙寿尼は二カ月ほど留守居を勤めることになりました。
御報恩・御報告の登山
明けて明治十一年一月三日、総本山への登山のため、久留米の幹部信徒の橋爪佐平、今村得次郎、田辺弥市、森村庄助をお供として、大阪を出発しました。十四日には総本山に着き、寂日坊で草履(ぞうり)の紐を解きました。
厳しい寒さのなかでしたが、早速、翌日、御法主日布上人のお目通りをお許しいただき、筑後と豊前の異流義をほぼ平定したことを御報告し、さらに折伏の大誓願を半ば成就できたことの御礼を申し上げました。また同行した信徒一同も、この上ない喜びであることをお知らせしました。その後、総本山内のあちらこちらでお招きをいただき、御馳走になりました。
そして、随行の信徒は五日間滞在し、地元へ帰っていきました。妙寿尼はそのまま総本山に残り、裏門前の冨士見庵に仮り住まいすることになり、既に住んでいた吉田東保一家と同居することになりました。
この年の七月十四日に、第五十五世日布上人の御代替(だいがわり)奉告法要ならびに御霊宝虫払(むしばらい)大法会が予定されていたので、法要に出席する僧侶の法衣の新調を、妙寿尼はお手伝いをすることになりました。
三月になると、御師範日霑上人が、名古屋から半野の妙経寺(富士宮市、明治二十九年に愛知県小牧市に移転)の隠居所にお帰りになり、十月には総本山の蓮葉庵にお移りになりました。このような状況は、修学のよい機会であり、妙寿尼はそれを活かし、日霑上人より直々に御法門を学ぶことができました。
さらに、よほどの幸運に恵まれない限り参詣できない御代替奉告法要ならびに御霊宝虫払大法会に出席でき、妙寿尼にとって大いなる感動とともに、大石寺信仰の正しさを一層、確信することができました。
絹袈裟免許・教導職拝命
このころ、妙寿尼は「絹袈裟」の免許を頂き、十月十五日には公に「教導職」を拝命することもできました。これによって外見も、大石寺の教えを弘める僧侶として一人前となったのです。古来、宗門の尼僧として、このような待遇を受け、また資格を与えられた者はいませんでした。
ですから、総本山内外の僧俗から、格別の祝詞を受けることとなったのです。心から有り難く思いながらも、妙寿尼は、
「どのようにすれば、この大恩にお応えすることができるのだろうか。それには、やはり死身弘法の折伏だ。さらに心を奮い起こし、励むしかない」
と心に固く誓いました。
実は、妙寿尼はちょうど「たとえ一年ほどの折伏によって多少の功労はあったとしても、双林寺において十年もの間、大石寺に敵対し続けた大謗法行為への償いにはとても及ぶことはない」と、しきりに反省しているところでした。そこに、宗門から今までなかった待遇や資格を与えるという話が出てきたのです。妙寿尼は、自分にはもったいない限りであり、とてもお受けすることはできないと固く辞退しました。
すると、御法主日布上人から「これは、あなた個人に与えるのではない。あなたやあなたの縁で、共に異流義の折伏に汗を流した方々への功労として授けるのである。今後の布教の手助けとなることもあろう。特に、共に戦った九州の人々への良き土産でもある」との御深意までお話しくだされたのです。
この御法主上人の尊い御配慮に感服し、妙寿尼は改めて、謹んでお受けしたのでした。
このたびの妙寿尼の登山は、思いのほか長期滞在となってしまいました。久留米には新入信者が多く、早い時期での育成の重要性を考えるにつけ、長期の総本山滞在を続けることはできません。妙寿尼は、十二月十六日に暇乞(いとまご)いを申し上げ、総本山をあとにしました。再び久留米の今村宅へと戻ったのは、同月の二十九日でした。
第7章 留難時代
布教所購入
信徒が増えたことによって、今村宅や橋爪宅を布教所として間借りをしているのは様々な面で支障を来たすようになりました。このままでは、大事な折伏活動の効率の低下にもつながります。そこで、皆で話し合った結果、「独立した家屋を」との結論が出たので、庄島町に隣接する白山村にあった、元は印刷所の古屋を購入しました。
白山村民の妨害
このころは、まだ寄留(きりゅう)法という法律がありました。昭和二十六年の住民登録法の制定に伴い廃止になりましたが、本籍地以外の一定の場所に九十日以上にわたって住むためには、許可を受ける必要があるというものでした。
したがって妙寿尼は、早速、村役場に古屋へ転居するための「寄留願い」を提出しました。ところが、その話はたちまち村中に広まっていました。しかも、白山村の村民達は、以前から大石寺の信仰を快く思っていなかったのです。すぐに、村民達は役場に顔を揃(そろ)えて「他の場所ならば勝手だが、我が村に固(かた)法華(法華経に凝(こ)り固まっている教え)を弘められては困る」と言って、反対運動を起こしたのです。
しかし、担当の戸長(明治初期、町村に置かれた役職)の田中茂五郎は「申し出には、全く正当な理由が見当たらない。日蓮宗興門派とう宗派の教えが万一、世間の秩序を混乱するようなものならば、警察が活動を差し止めてくれることだろう。よって、一般人が他人の権利を妨害することはよくない」と公正な判断を下しました。これによって、村民の感情が多少、和らげられ、妙寿尼の寄留は正式に認められました。
妙寿尼は明治十二年二月一日、今村宅より白山村の古屋へ移って、信徒達と一緒に礼拝できるように清楚(せいそ)な仏壇を設け、御本尊を安置しました。安心してお参りする所ができたためか、参詣する信徒の足音が、早朝から夜分まで絶えませんでした。
この布教所の盛況さが、また村民達の癪(しゃく)に障(さわ)ったのです。やがて、村民が布教所に向かって石や瓦を投げたり、花火を使っていたずらをするようになりました。さらに「あの尼さんは、きれいな顔をして、人の肝(きも)を取るそうだ」との悪評まで立てられたのです。こうして、布教所に対する様々な嫌がらせは、絶えることがありませんでした。
布教所の有り様
妙寿尼の苦労は、村民の妨害だけではありませんでした。古屋の修繕をしっかり済ませないうちに移り住んだので、雨が降るたびに容赦なく漏ってきます。昔の人が、みすぼらしい家の屋根を覆(おお)うには、さぞひと苦労であろうなどと、「賎(しず)が伏屋(ふせや)を葺(ふ)きぞ労(わずら)ふ」と詠(よ)んだそうですが、けっしてそのような風流な状況ではなく、畳を上げてその上に座り、傘を差さなければしのげないほどの有り様だったのです。
雨の日以外でも、冬の寒さはことのほか厳しく、壁は破(やぶ)れ落ち、障子は骨ばかりの家なので、春野の梅の香がそのまま漂ってくるような寝室は、まるで八寒地獄を思わせるようでした。そこで、ふと一首が口をついて出ました。
春風の 身にしみじみと夜もすがら 枕にかほる 野辺(のべ)の梅が香(か)
その上、食料の乏しさは餓鬼の苦悩を彷彿(ほうふつ)とさせるものでした。信徒が御供養する米や講費などは、当時、世話人であった橋爪佐平に任せていたので、本人は将来のための蓄財のつもりなのでしょうか、油などは二合半しか与えてもらえませんでした。米の値段は一升で十四銭もしました。そこで妙寿尼は、やむなく万一の時の用意金に手を付けて生活をしていたのです。しかも、このような事態に陥っていることなど、信仰に入ったばかりの信徒達に話せることではありません。
よく考えてみると、信仰の新田開拓や新寺の建立には困難はつきものであり、大聖人様の佐渡塚原での御生活に思いを致せば、今住む建物や食事など大したことではないと肚(はら)を決め、半年余りを過ごしました。
日霑上人の御下向(げこう)
そのころ、御師範日霑上人は尾張から金沢にまで布教の手を入れられ、いずれの地にあっても、まさに新寺が建立されんとするほど活気づいていました。そのようななか、妙寿尼は御師範上人より「金沢の妙喜寺の開院式が済んだならば、しばらくは折伏のあと押しをしてやろう」との思(おぼ)し召しを頂戴しました。とはいっても「このあばら家にお出ましいただくのは、あまりに申しわけない」と考えた妙寿尼は、手元の用意金五十円と豊前講中の四十円を合わせて修繕金とし、直ちに工事に掛かることを信徒達に提案しました。
この資金に勢いづいた信徒の多少の拠金も得て、まずまずの修理がやっと完成することができたように、当時は極めて乏しい資力だったのです。
日霑上人が、十二月四日に博多に到着される予定だったため、妙寿尼は、お出迎えのために橋爪佐平と梅田栄三郎を遣わしました。そしてこの日の夕刻、無事、富士本広正師と土屋慈観師(のちの第五十八世日柱上人)を伴われて、日霑上人は御機嫌うるわしく、久留米の地に到着されました。
「霑妙庵」と命名
もともと広正師は、自分が住職をしている大阪池田の源立寺の法務が忙しかったのですが、お供の慈観師が十四、五歳の年齢だったので、臨時の世話係のつもりで付き添って来ていました。ですから、二週間ほどの滞在で池田に戻りました。
日霑上人は、白山村の布教所を「霑妙庵」と命名せられ、御本尊を下付されました。その脇書きには、
「大日蓮華山 大石寺末流 筑後国三潴(みずま)郡 久留米霑妙庵常住
明治十一年戊寅七月二十五日 本国開導当庵起立之本願主 弟子佐野妙寿尼」
と認(したた)められていました。また、日霑上人は、
明治十二年白山村に寺院を建立せん時
霑 子
縁(えに)しあれば 夢にもかくぞ しら山に たへなる法の 華もさきけり
との御歌も詠(よ)まれています。
日霑上人は久留米御滞在中、明治十三年一月には『祖文纂要(そもんさんよう)』の上下二巻を編集出版し、信徒の育成と信心向上を計られています。のみならず、日霑上人の久留米御留錫(りゅうしゃく)により、信徒の信仰は一段と向上し、新入信者も増えていきました。
五月二十一日、日霑上人送別の饗応(きょうおう)の時、妙寿尼は次の和歌を詠みました。
から衣 おもひ立日は 梓弓(あずさゆみ) 引きとめがたき 袖(そで)の別路(わかれじ)
妙寿尼は日霑上人に、むさ苦しくて、なんの風情(ふぜい)もない、しかも不自由この上ない草庵に、長く滞在していただいたことを申しわけなく思いました。同時に、妙寿尼自身が、御法主上人より無量の法益(ほうやく)を賜ったことを心から有り難く思い、深く感謝申し上げました。
日霑上人のお帰りの際、広正師が大阪から駆けつけました。とはいっても、実際は妙寿尼と田辺弥一とで日霑上人を豊前までお送りすることになったので、広正師には霑妙庵の留守居かたがた、久留米下方(しもかた)の布教も頼まれたのです。
妨害の嘆願
白山村の村民達は、霑妙庵の盛んになっていく様子に目を見張りました。あのような狭くて粗末な庵(いおり)に、総本山の貫主がお供を連れてやってくるとは思ってもいなかったからです。そこで、村民達は談合をし、
「なんということだ。あんな高僧まで来るようになってしまった。この調子では大石寺の信仰をする者が、どれほど増えるか判らない。寺院建立の正式な認可が出ないうちに、霑妙庵を廃止に追い込んでしまえ」
という結果で一致したのです。直ちに村の議員を召集して村会を開いたり、神社に一般の村民を集めて大会を開いたりして、なんとか妙寿尼らを追い出そうと画策しました。
さらに、戸長の赤司其次を介し、主だった妨害者十名が書面で妙寿尼らに抗議してきたり、村民を代表して堀田素平が福岡県庁に出頭し、「白山村村民一同が反対をしているので、けっして興門流の寺院建立を認可しないよう」との嘆願まで行ったのです。
寺院建立願いの却下
一方、霑妙庵側には、信徒のほかに村民のなかから山田英雄、橋本健吾など、数名の同情者が現れ、寺院建立願いの連名に加わるという、うれしい動きも生まれてきました。
しかし多勢に無勢で、妙寿尼らの寺院建立の願いは通らず、県庁から「どこか、支障のない別の場所に土地を取得し、再度、寺院建立の許可を申請しなさい」との通達がありました。
白山村での寺院建立願いは却下となりました。妙寿尼をはじめ、信徒達は全く途方に暮れてしまいました。そして、ひたすら「乏(とぼ)しい資金をはたいて、せっかく建物を修繕したのだから、是非、ここで寺院として認可をしてもらいたい」と願うのでした。
霑妙庵の土地建物の売主であった江島幸平は、妙寿尼らを気の毒に思い、色々と手を尽くしてくれました。また、
「認可を得るためにはまず、村民達と付き合いをよくしていくべきである。ほかに方法はないのだから、頭を下げて村民とお付き合いするのが一番よい方法である」
との助言もしてくれました。妙寿尼自身は得心がいかなかったのですが、講中一同が同意したので、実行に移すことにしました。
早速、十月十一日の御会式に合わせて、実行することにしました。赤飯を一石蒸し、酒や料理を用意して、村民一同を招くことにしたのです。なかには、不快さを露わにして不参加の者も出るかと思いましたが、案に相違し、入れ代わり立ち代わりやってきて大にぎわいとなり、結局、御会式の祝宴は夜の十二時過ぎまで続きました。その際、出入りする謗法の者達に「一々丁寧に挨拶してください」との要望もあったので、妙寿尼は疲労によって筋骨が痛くなるほどでした。
このようにして、その後も村民の集まる機会を見つけては、お酒やお菓子などを用意し、誠意をもって一人ひとりと交流を図りましたが、県庁へ出した寺院建立妨害の嘆願は一向に撤回しようとしません。結局、謗法の人達の御機嫌を取っているだけで、全く事態が進展しないという、いわゆる世間的に見ても、仏法の上から言っても、大失敗に終ったのです。
講中の人達もやむなく、やるせない思いを心中に秘して、妙寿尼の最初からの考えに合わせ、寺院建立願いは、当分の間、様子を見ることにしました。
役所の意向
寺院建立が難しい局面を迎えているころ、妙寿尼は日布上人からお手紙を頂いています。
「日霑上人がお帰りになったあと、広正師が、県庁から許可が下りるまでいてくれることと安心していたが、同人はほどなく帰ったと聞き及んだ。万事、あなた一人が心を悩ましているであろうと、心中を察している」
と尊い御慈悲を吐露されています。
このころ、総本山では廃寺となった寺院名を新寺に使用する方針であり、霑妙庵には総本山塔中の「随本坊」を引寺(ひきじ)する予定でした。しかし、日霑上人にはその通知がなかったので、尾張の寺院に「妙道寺」と「興道寺」、筑後のようは「霑妙寺」と、御自身の妙道院日霑のお名前に基づいてお寺の名を付けられたのです。とはいえ、その後の「廃寺を引寺としてはならない」との県庁の意見によって、総本山の方針も自然消滅の形となりました。
ともあれ、霑妙寺建立のための手続きが一向(いっこう)にはかどらないので、妙寿尼らは福岡県令の部下である荒木元という県官に内談しました。
ちなみに、廃藩置県に伴って県に置かれた長官の呼び名が「県令」となり、明治十九年には「知事」と改称されています。
ところで、妙寿尼らが相談した県官からは「そのような事案は、高位の県令に、わざわざ申し上げる内容ではなく、係がすべて決裁する事柄である」と言われてしまいました。そこで、すぐに担当の係に「なぜ、霑妙庵から出した寺院建立を認可しないのか」と質問したのです。すると、
「霑妙庵は『昼夜、人を集めて太鼓を鳴らし、祈祷(きとう)などを行い、村民に多大な迷惑を掛けている』との苦情が多く、そうしたことから認可していない」
との返答でした。妙寿尼らが「我が宗団は、そのような祈祷をする教えは説いていない。また大騒ぎをしている実態もない」と抗弁すると、係官は、
「それでは、もう一度願いを出せば、実態を調査した上で取り計らいましょう」
との返答でした。さらに、丁寧にも、
「もともと役所への願い出については、どのようなことでも、たとえ不都合な内容であっても、戸長が押印を勝手に拒む権利はないことになっています。しかし、保守的な戸長のなかには、書類にあれこれと難癖をつけて押印しないこともあるようです。万一、押印もせず、書類の取り次ぎもしないということであれば、それを申し立てて、霑妙庵の御信徒のなかで、だれでもよいので、しかるべき人を立てて出願してください」
と助言までしてくれました。
この話を受けて、大阪蓮華寺の信徒・荒木清勇(せいゆう)が、福岡に行く際に尽力することになっていましたが、時間的に都合が付きませんでした。
日蓮大聖人第六百遠忌大法要登山
明治十四年、宗祖日蓮大聖人の第六百遠忌大法要に出仕するため、妙寿尼は藤田利七、橋本サイの二人を連れて登山することにしました。講中の者は「妙寿尼様の留守中に、村民を寺院建立に同意するようなんとか説得し、お帰りをめでたくお待ちします」と言って、大勢の人が古賀茶屋まで見送ってくれたのです。
八月十八日は秋月に泊まり、明けて十九日には猪膝(いのひざ)に泊まりました。その間の八丁越(はっちょうごえ)と大隈(おおくま)峠という通行の難所は、仕方なく牛と馬を使って越えました。行橋の中原宅や古賀仙平宅、宝屋(清田宅)に十三泊し、行橋を九月二日に出て、小倉から下関に行き、そこから瀬戸内海を船で渡りました。五日には大阪に着き、その晩は曽根崎の牧野伊兵衛方(静観楼)にお世話になりました。
これ以後、汽車が全通するまで、久留米の信徒達までが総本山への往復の際、必ず静観楼に立ち寄ることになりました。篤信者であり、また大家でもあり、しかも親身になって面倒を見てくれたので、まるで自分の家でくつろぐように、だれもが心置きなく過ごすことができました。そのことを、妙寿尼も常に感謝していました。
静観楼でお世話になったあと、妙寿尼らは大阪の蓮華寺と京都の住本寺に参詣し、京都には広正師がいたので、そこに四泊してから総本山へ向かいました。
滋賀の大津までは汽車、そこからは船で米原まで行き、あとは東海道を徒歩で進みました。妙寿尼は途中で足を痛め、人力車に乗らなければなりませんでしたが、なんとか九月十八日に総本山の寂日坊に着きました。
翌日、日布上人にお目通りし、さらに日霑上人と日盛上人の両御隠尊上人にお目通りを済ませ、それから御開扉をお受けして、登山した折にすべきことは滞りなく終了しました。その後、妙寿尼は富士見庵に滞在し、予定されている十月二日からの御遠忌大法要までは少し間があるので、その大法会用の縫い物の手伝いをしました。
妙寿尼への褒賞
日蓮大聖人第六百遠忌大法要の時、妙寿尼の九州弘通の功績に対して、日布上人は御賞歎の御本尊を御下付されました。この時、絹の衣の着用も許され、念願の高座説法の免許を被りました。また、これを祝って日布上人と御師範日霑上人より絹の袈裟と衣を頂戴し、さらには日英上人よりの御遺言として御本尊数幅まで御下付いただきました。
妙寿尼は、自身の懺悔滅罪のための御奉公が、このように御歴代上人方に認めていただけたことが本当に有り難く、どのような困難があろうとも、必ず久留米の地に正法の寺院を建立しようと、決意を新たにしました。
ところで、お供で来た藤田利七は、本人も納得ずくで、総本山において御奉公させるつもりで同行させたのですが、どのような理由によるのか、登山してから本人が拒絶してきました。やむなく、吉田東保に頼んで、大宮警察の分署に小使いとして雇ってもらうことになりました。ところが、御遠忌の大法要も盛大裡に終了して時間的にも充分な余裕ができても、一向(いっこう)に分署の勤めに出ようとしません。のみならず、利七はわがままの限りを尽くし、その挙げ句、妙寿尼と久留米に帰るとまで言い出しました。そのまま総本山に利七を置いて下山するわけにもいかず、結局、連れて帰ることにしました。
妙寿尼は、今回の登山で未曽有の大法要に参詣することができ、その上、九州弘教の実績をお認めいただいて賞与を賜り、さらに高座説法(新説免許)も許されたのです。当然、晴れやかな気持ちで下山できるはずでしたが、利七のわがままに振り回され、妙寿尼は憂鬱な気分のまま、方々へ形(かた)の如く挨拶をし、十月十四日に下山しました。
帰路は鳴海(なるみ)(名古屋市)から伊勢に渡り、草津(滋賀県)に出て、十月末の夕刻に京都の住本寺に着きました。妙寿尼らは京都で少し足を休め、さらに大阪へ出て、牧野宅に着きました。出発の時、利七の姿が見当たらず、探しても見つからないので、無断で久留米に向けて出発したのであろうと妙寿尼は推測し、いつもの気まぐれのように思って、サイ一人を伴って船に乗り込みました。
十一月一日の正午に博多に上陸し、「帰心(きしん)矢の如し」の諺(ことわざ)通り、はやる心に任せて車を飛ばし、松崎(福岡県小郡(おごおり)市)に着いたのが午後五時でした。すると、サイが「ここに泊まりましょう」と言い出し、座り込んでしまいました。しかし、妙寿尼が、
「なぜ、あと十二キロほどの近い所ではありませんか。夜になったとしても、庵(いおり)に帰ったほうが落ち着いてよいでしょう」
と言って車を出させたので、サイはしぶしぶ従いました。
実は、利七の勝手な行動とサイの座り込みは、すべて二人の謀(はかりごと)だったのです。信心が弱くなると、魔が差して何をしでかすか、本当に判らないものです。
さて、妙寿尼らは、午後七時に久留米に着き、とりあえず庄島昇町の橋爪佐平の家に車を着けました。庵の近くで、留守を頼んでいたこともあり、その御礼かたがた帰ってきた挨拶をするためでした。しかし、家人が不在のようなので、そのまま霑妙庵に向かいました。
霑妙庵に足を踏み入れると、ちょうど講中が集まり、大談合をしている最中(さなか)でした。ところが、妙寿尼らの顔を見ると、皆が木の葉の散るようにどこかへ消え失せて、「お帰りなさい」と挨拶をする者もいません。だいぶ時がたってから、下坂重七の妻トセが、妙寿尼のためにお茶を入れ、大根葉の漬物で茶漬けを出してくれました。その後、無事に霑妙庵に戻れた御報恩の勤行を始めても、一緒に読経する者もいないという殺風景さでした。妙寿尼は湧き起こる不審で、心中、悶々とした一夜を明かしました。
翌二日は、参詣する者はいましたが、居間に入ってくる者は一人もいませんでした。三日は旧暦の九月十二日に当たるので、参詣者によって竜口法難会は、にぎにぎしく行うことはできましたが、改めて妙寿尼に挨拶する者はいません。不思議さが募るばかりで、何がどうなっているのか解りません。
そこで大勢の内緒話の座に加わって、妙寿尼が、
「帰ってきてから三日になるのに、どうして一人も挨拶にこないのでしょうか。自分に何か至らないことがあるのか、それとも皆が心変わりでもしたのでしょうか」
と尋ねてみると、野上良八が「まぁ、左様(さよう)」と言っただけで、あとは黙ってしまいました。説法の座に着き、話を始めても、聴衆は木石が並んでいるのも同然で、反応が全くありません。しかも、法要が終わるや否や、蜘蛛(くも)の子を散らすように一人もいなくなってしまったのです。
妙寿尼の心の中を、
「ここを出発する時には、大勢が元気いっぱい、喜んで送り出してくれたのに」
「たった三カ月いない間に心が離れてしまうとは、いったいどうなってしまったのか」
「霑妙庵に参詣はしているので、謗法の宗教に戻ったわけではないであろう」
「いったい、どのような事情があるのだろう」
「折伏の師匠をないがしろにするのは、浅ましいことである」
など、様々な思案が去来しました。
その後も一軒一軒、自分の足で歩いて教導しようとすると居留守を使われたり、参詣者のなかでたまに妙寿尼の部屋に入る者がいると、それを内通者が講中に報告するという状況が続きました。やがて、秋山種がそっと「講中一統が立ち合いのもと、十一月二十二日に妙寿尼と藤田利七、橋本サイとが対決した上で、ことと次第によっては、妙寿尼を追放しようという計画になっている」と教えてくれました。
当日、少しずつ信徒が集まってきて、午後二時ごろまでには普段とは違ったそぶりで皆が中に入り、まず礼儀正しく挨拶をしてから、代表の者が次のように切り出しました。
「本日は、総本山参詣の様子、また道中のこと、さらには利七が総本山で御奉公ができるようにお世話をしなかったこと、また利七だけをなぜ大阪から早く帰したのか。これら一つひとつを承りたい」
この話し合いが進み、ここでようやく妙寿尼は、サイが利七を先に久留米に帰して、講中の人々に「妙寿尼は、総本山で大きな不始末をしでかしました。とても人様には顔向けできない失態で、御法主上人猊下様はもとより、お二人の御隠尊猊下様もあきれはてられ、自分達二人も赤面の至りでした。それによって、御奉公もできないようになってしまった」などと悪宣伝していたことが判ったのです。利七が白々(しらじら)しくも、全く反対のことを言いふらしたため、愚直な講中の人々は真(ま)に受け、これまで妙寿尼を生き仏のように慕(した)っていた思いが一変して、霑妙庵から追い出すような行動を取るまでになってしまったのです。
妙寿尼は馬鹿ばかしく思いながらも、やむをえず対決することにしました。とはいっても、実に浅はかな狂言だったので、妙寿尼の一言(ひとこと)、二言で、謀(はかりごと)のすべてが皆の前に露呈(ろてい)してしまったのです。講中一同の驚きようは、とても言葉では表せないほどでした。同時に、妙寿尼を気の毒に思う多くの場面もありました。
熱心な信者で、正直者の随一である野上良八は、両眼より滝のような涙を流して、
「たわいもない悪人どもの言葉を信じて、なんの過(あやま)ちもないあなた様に敵対した罪の恐ろしさ。なにとぞ、御慈悲をもってお許しください」
と平身低頭するばかりです。そのほかの者達もわっと泣き出し、涙をはらはらと流しながら、口ぐちに、
「恐れ多いことをいたしました。今後は、間違いなく身を粉(こ)にして努めますから、どうかお見捨てにならないようにお願いします」
と言って平伏しました。
一方、妙寿尼は、事情さえ判明すればさっぱりとしたもので、なんのわだかまりもなく、信徒達に対して、
「懺悔は五百生の罪を滅ぼすと言います。この懺悔とは、折伏の実行です」
と言い、安心させたのです。
さらに御登山中の、有り難い日蓮大聖人第六百遠忌大法要の様子、日布上人から賞与御本尊を下付されたこと、念願の絹衣と登高座説法の免許を被ったこと、日英上人が御遺言されていたということで御本尊数幅を下付されたこと、さらに日布上人と御師範日霑上人より絹の袈裟(けさ)と衣を頂戴したことなど、妙寿尼の話は尽きません。またその際、それぞれの御本尊も拝礼させました。
こうして信徒一同の、煩悩による一時の悪夢も覚め、いよいよ皆の正信が増進したことを実感した妙寿尼でした。
「このたびの愚かな騒ぎも、雨降って地固まるというように、御本仏の大慈悲によるお計らいで、一人ひとりに金剛の如き信心を植えつけられたのではないか」
そう思えて、妙寿尼は「平左衛門(へいのさえもん)こそ善知識」との御金言のように、藤田利七と橋本サイこそ、多くの者達の信仰を固めるための善知識であったと痛感し、両人を少しも怨(あだ)には思いませんでした。
白山村の寺院建立を断念